『海街diary』の原作と映画版について

2024年2月7日

最近、吉田秋生の『海街diary』(全9巻、小学館)を読んだ。ふだんから漫画じたいそれほど読まないし、少女漫画といえば片手で数えられるくらいしか読んだことがないのだが、この作品は時が経つのも忘れて夢中で読みふけった。久々にいい作品に出合った。それから映画化されていることを知り、原作がこれだけ素晴らしいのだからどんなものだろうかと思って読後の余韻がさめないうちに観たのだが、あまりの出来の悪さに呆然としてしまった。是枝監督は『万引き家族』(2018)が文句なしの傑作だったので残念。これから作品にふれてみたい方は迷うことなく原作を手にとってみることをおすすめする。

とはいえ、なぜこんなことになってしまっているのか不思議でしょうがないので自分なりにちょっと考察してみたい。まず脚本の問題。原作のほうは2006年~18年と長期にわたって『月刊flowers』に不定期連載されたのだが、映画の公開は2015年であり、これは全9巻あるうちの6巻までしか出ていない時期である。『ちはやふる』なんかもそうだったが、完結していないヒット作を途中で映画化すること自体は珍しいことではないし、別に問題はない。

ただ、『海街diary』は登場人物一人ひとりの物語を丁寧に、丁寧に描き、それらを複雑にからみ合わせることで全体を構成するタイプの作品である。脇役としか思えないキャラクターにもちゃんと物語が用意してある。いわば精緻なパズルのようなもので、たとえ1ピースでも欠けてしまえば作品が成り立たなくなってしまう。そのような淡々としていながら緊密に構成された作品の行きつく先を知らないまま、核となるエピソードだけを取り出して、そこに印象的な場面を添えてみました程度の脚本で映画化するというところにまず無理があったのだ。結果として原作のすぐれた心理描写や登場人物同士の細かい結びつきはばっさりカットされていて、単なる鎌倉ほのぼの物語になってしまっている。監督による再解釈といえば聞こえがいいが、それがうまくいっているとは到底思えない。

要約すれば、この作品はすずの物語ということになるのだろう。原作者の意図もそこにあるだろうし、映画版の英語タイトルもOur Little Sisterである。たしかに、登場人物でくくるとどうしてもそうなってしまう。しかし、原作は回ごとに焦点が当たる人物が次々に変わっていくし、よくできた作品がおしなべてそうであるように、この作品もだれか登場人物ひとりの物語という要約をはねのけるような、群像劇的な魅力にあふれている。メインキャラクターである幸、佳乃、千佳、すずの四姉妹とその親類たち、さらに彼女たちが属する職場やサッカークラブ、地域の人たちとの人間関係があり、その一つひとつが主人公であるすずの物語と等価であるかのように扱われる(カーソン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』の描き方になんとなく近いものがある)。その複雑さはぼうっと読んでいると誰と誰がどのような関係にあるのかをつい見失ってしまうほどだ。

そしてこのような複雑な人間ドラマを成り立たせている舞台は鎌倉である。僕は宮崎の田舎に住んでいて、鎌倉といったら鳩サブレーくらいしか知らない人間なのだが(汗)、それでもこういう話が東京みたいな都市部では成立しないだろうというのは容易に想像がつく。東京でも都市部と下町とでは雰囲気もぜんぜん違うわけだが、九州人は『君の名は。』の三葉みたいに東京というものにある種の幻想を抱いているところがあると思う。歴史のある街であるとはいえ、我々九州人にとって鎌倉というのはそういうコンプレックスを変に刺激しない絶妙な場所でもあるのだ。

やや話がそれてしまった。『海街diary』をすずの物語といってしまうのは、『スター・ウォーズ』シリーズをアナキンやルークの物語と言いきってしまうのと同じで、確かにそうなんだろうけど、それは要約しすぎではないか?的なモヤモヤを感じる。この作品は『ラヴァーズ・キス』、それに現在連載中の『詩歌川百景』(2019年~)とあわせて鎌倉三部作となるものであるから、鎌倉という場所そのものの物語なのかもしれない(といっても後者は舞台が山形となっており、今後鎌倉が描かれるのか不明だが)。そのように考えれば映画版もまあ観られないことはないだろう。少なくともあれを観ていると鎌倉に行ってみたくなるし、梅酒を飲んだりしらすトーストを食べたくなったりする。原作において「食」がとても大事なものとして描かれているのは明白なので、別にこれはけなしているわけではない。

ただ、自分としてはすずの物語と対になっている長女・幸の物語が非常に重要だと思っているので、すこし整理しておきたい。幸、佳乃、千佳の三姉妹は父親がほかの女性と不倫して出ていき、母親もまた別の男性といっしょになって出ていった。姉妹は祖母に育てられたのだが、そこでは一回り年の離れた幸が妹たちの母親代わりになったことだろう。自分たちの家庭をぶち壊した女の娘であると知りながら、すずを引き取ろうとするのは向こう見ずな不器用さ、責任感の強さゆえである。物語は父親の訃報が入るところから始まるが、本当の意味で物語をスタートさせるのは幸だ。二人は母親違いの姉妹で、容姿が似ているのだが(原作だとコマによっては同じ顔?に見えることも)、それはつまり二人とも父親に似ているということだ。優しいけれど、不器用でダメな父に。佳乃や千佳とちがって、幸は容姿も性格も男性的な側面を強調するようにして描写されている。そう考えれば、彼女が妹たちにとって精神的な「母」でありながら、同時に「父」として位置づけられていることも自然と理解できる。

しかし、精神的な親である以前に幸も人間としての葛藤を抱えた一人の女性である。彼女は思いを寄せる小児科医の椎名と曖昧な関係を続けている。彼は既婚者であり、いくら妻が精神を病んで別居しているとはいえ、二人は社会の側からみれば不倫という関係性でしかない。彼女はそれを否定するものの、状況としては彼女たち姉妹を置き去りにしてほかの女と出ていった父親と同じ行動をとっていることになる。これが誰にとっても禍根を残さずに済んだのは椎名がアメリカ行きを決断して、なかば不可抗力的に別れることになったからだ。ここでの幸は主体的な選択をしたというよりも、社会規範に、自らを縛る力の前に屈したとみるべきだろう。けっきょく、彼女は自分で引き取ることにしたすずを置いて出ていくなどという非情な真似はできないのである。それは保護者が娘を捨てることであり、まさしく彼女自身が父親から受けた仕打ちに他ならないからだ。最終的に、彼女は同じ病院で働いていて、すずのサッカークラブの監督でもある井上(ヤス)と恋仲になる。最初はそれほど乗り気ではなかったはずの彼との交際をとおして、束縛を解き、本当の意味で自分の人生を歩めるようになっていく。

物語の主軸は中学生であるすずが少しずつ成長していくところにあるが、無鉄砲にも彼女を迎え入れる選択をすることで、幸もまた確実に人として成長していく道を歩みはじめる。さらにいえば、佳乃や千佳もそれぞれの物語をとおして人間としての成熟を見せることになる。原作ではホストに100万貢いだというエピソードが出てくるように、相当な面食いである佳乃は朋章と付き合って痛い思いをし、その後上司である坂下と向き合ううちに男を外見だけでなく内面でも判断できるようになっていく(「人は成長するモンなのよ/生きてりゃいろいろあんだから!」(第7巻、p146))。千佳は職場の店長である三蔵とのあいだに子どもを身ごもってしまうが、エベレストにいる彼の消息がわからなくなり、夫の命と赤ん坊の命が同時に天秤にかけられる状況のなかで、命そのものや人が人を思う気持ちの重みについて学ぶ(物語の終結につながっていくこの展開は千佳の性格を考えてもかなり強引ではあるけれど)。

僕は彼女たちを姉妹ではなく、あえて家族と呼びたいと思う。すずから見れば、三人でひとつの親に育てられたようなものだろう。父と母がいて、その真ん中に子どもがいるという形態だけが家族ではないのだということを改めて感じた。また作中において伝統的な家族としての形はすずや千佳が離れていき、残された幸や佳乃も同じ道をたどることがそう遠くないだろうという予兆とともに静かに崩れていくが、彼女たちの心の絆はどこにいて何をしていても失われることはないだろう。形としての家族から、「心」としての家族へ、僕はそういう前向きなメッセージをこの作品から読み取った(注)。

それからもうひとつ、緩和ケア病棟で幸と働くことになるアライさんの存在について。原作においてアライさんは何度も何度も言及されるにもかかわらず、その場にいなかったりして、とうとう最後まで明確に描かれることがない。彼女は不器用で仕事をしていてもあらゆるミスを連発するが、患者に接するときだけは決してミスをしない(「妙なカンちがいはするし、作業は遅いし典型的なダメナースだと思ってたんですが/患者さんの安全にかかわるようなミスは絶対しません/ひょっとしたら彼女は…『とても大切なこと』とそれ以外のオン・オフがあまりに激しくて/不器用なだけかもしれないな……と/そしてその『とても大切なこと』は案外まちがってない気がするんです」(第3巻、p170))。

思うに、アライさんは人間として決して忘れてはならない優しさの象徴なのではないか。具象性のある荒井でも新井でもなく、匿名性の強いアライと表記されていることもその理由の一つだ。彼女は作品全体を貫く精神性そのものなので、意図的に存在が曖昧にされているのだ。幸は主任としてもっと優秀な人を選ぶこともできたのに、わざわざアライさんを選ぶことで、楽をすることよりもいかに患者と真摯に向き合うかという姿勢を学ぼうとする。原作では幸が乳がん疑惑をとおしてケアする側からケアされる側の立場を理解するエピソードが出てくるが(第5巻「好きだから」)、これは彼女の学ぼうとする姿勢を端的に強調するものでもある。映画でもアライさんの描写は出てくるものの、正直、彼女の存在意義は原作を読まなければわからないだろう(『ゴドーを待ちながら』みたいなものだが、『ゴドー』の場合は読んでもよくわからない)。まあ、さすがにアライさんをカットしていたら是枝監督は『海街diary』から何を読み取ったのか疑問符がつくところだが。

さて、このあたりで映画版のキャスティングや演技などにもふれておこう。原作を先に読んだことで、僕の中では幸=クールビューティ、佳乃=派手、千佳=不思議ちゃんというこれまた安易なイメージができあがっていた。実写映画化するにあたって、千佳の髪型を変えたり、佳乃の酒飲みキャラを薄めたりと、いかにも漫画的な設定を写実的なものに置き換えたのはよかったと思う。しかし、綾瀬はるかの幸は引き締まらないというか、そのせいで最後まで映画に気持ちが入っていかなかった。是枝監督は幸を古き良き日本のお母さんみたいなものに仕上げたかったのかもしれないが、僕のイメージする幸はもっと凛としていて気難しく、不器用で、それでいてツンデレ的な魅力があるわけで。長澤まさみの佳乃はほぼイメージどおりだが、いかんせんセクシーすぎて浮いている。夏帆の千佳はいつもマイペースに周囲とちがう行動をとっている感じが出ていてよかった。広瀬すずが演じるすずは悪くないと思うが、幸の場合と同じで、もっと内に秘めたものとか、芯の強さを感じさせる演技はできなかったのか。

個人的に、この作品はアニメで観てみたい。そもそも2時間程度の実写映画では表現不可能なのだから、ドラマにするなり、アニメ化するなり、別のメディア展開を検討したほうが作品にとって幸せだっただろう。谷崎の『細雪』と同じで、時間をかけて丁寧に描写してようやくじわじわと伝わってくるというタイプの作品なのだから。なぜアニメかというと、物語だけでなく、吉田秋生の画にとても心を惹かれるからである。原作にある平凡な、しかし静かに心を揺さぶる人間ドラマの描写を放棄した実写映画は、僕にとってはもはやタイトルが同じなだけの別作品としか思えない。そうすると連続アニメしかないというわけである。鎌倉を舞台とした小さな物語は、未知の世界に対して一抹の不安を覚えながら、そこに挑みかかろうとするすずの決意で閉じられる:「この先の未来も/幸福が何かも/正直よくわからない/でも世界は果てしなく/どこまでも広い/私はどこへでも行ける/どこまでもどんな遠くでも」(第9巻、pp.171-173)。短いながらも、読者の心のうちにどこまでも続く広がりを残してゆく作品である。

注:是枝監督の『そして父になる』(2013)がまさにそうだったが、近年は因習的な「家」の概念を否定しつつ、「生まれか育ちか」(nature or nurture)の「育ち」(nurture)に則って、家族の多様なあり方を描いてみせる作品が主流となってきている。『海街diary』もそのような流れの中に位置づけることが可能だろう。是枝監督は『万引き家族』みたいな掛値なしの傑作を撮れる人であり、だからこそ『海街diary』の映画版を僕は評価することができない。