村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年)その2

2024年2月7日

『街とその不確かな壁』について:その2

前回の考察のつづき。村上春樹の長篇はどれも「この世界とは何なのか」という問いがその核に位置していると思うのだが、『街』のように現実世界と非現実世界をいったりきたりする構成はそういった問いと特に親和性が高い。大江健三郎は今年3月に88歳で逝去したが、その10年前からすでに長篇は書けなくなっていた。村上にはぜひ今後も長篇を期待したいところだが、残りどれだけ書けるのか本人にもよくわかっていないだろうし、だからこそ70代という老齢の域に入ってまず過去作品の書き換えに着手したのは、いわば置きに行ったというところだろう。ここでは前回の考察で書ききれなかった<精神的な愛><居場所を求める者たちの共同体>という2つのテーマについてまとめておく。

<精神的な愛というテーマについて>

作中において「私」が生きながらえて行動している原動力のほとんどすべてといってしまってかまわないのは、17歳のときに「きみ」に抱いた恋愛感情およびその喪失である。これもまた非常に村上春樹的なテーマなので詳しい説明は不要だろう。おわかりにならない方は『ノルウェイの森』を手に取っていただきたい(ただし、これは表面的にはリアリズム小説だが、じっさいはリアリズムの皮をかぶったファンタジーみたいなものであり、そう思って読まないと村上初心者はまず挫折する)。

思春期に誰かに対して抱く恋愛感情は特別なものだ。それはのちの人格形成や人生そのものに大きな影響を及ぼすことだってある。ひとまず「私」は作者の人格の投影だと仮定するなら、70歳を過ぎて17歳のころの自分と16歳の少女の交流を描いているわけだが、これは特におどろくに当たらないだろう(注1)。村上春樹は大きな物語、具体的にいえばドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のような総合小説を志向しており、「僕」や「私」といった個人の視点から世界を解釈しようとする物語を飽きることなく繰り返し描き続けてきた。『一人称単数』というネーミングにはそんな作家のこだわりが端的に表れている。長篇における「僕」や「私」は無色透明な存在であるが、たいていは名状しがたいぼんやりとした喪失感にとらわれている。さらに、物語の語り手が喪失感にとらわれていることによって、村上春樹の作品世界そのものが霧のような喪失感に包まれることになるのだが、これがアンチ村上派からすると過剰なナルシシズムとして、ファンからするとヒーリング・ミュージックのような質感を有する静寂として感じられるのだろう。

(注1)こういった姿勢からは、村上の作風がまぎれもなくポストモダンでありながら、テーマ的にはむしろ19世紀のロマン主義に近いものであることを改めて確認することができる。

17歳の「ぼく」は16歳の「きみ」と親しくなり、会ったり文通したりするうちに恋愛感情を持つようになる。少女も「ぼく」といっしょになることを望んでいる。しかし、少女は精神的な問題を抱えていて、あるとき突然「ぼく」の前から姿を消す(注2)。あとに残された「ぼく」は深い心の傷を負うことになる。恋愛というものは、それが成就して恋人といっしょになれるとわかった途端、夢から現実に変わるという性質がある。そして現実はつねに夢よりも苦いものである。だから、成就した恋愛よりも成就しなかった恋愛のほうが甘美な観念の余地を残しているぶん、いつまでも尾を引くということが往々にして起こる。ダンテにとってのベアトリーチェ、ゲーテにとってのグレートヒェンみたいに、突然消え去った「きみ」は「ぼく」にとって、そして時を経てくたびれた中年になった「私」にとって「永遠の女性」として聖別されている。ゆえに、「無上の至福であると同時にある意味厄介な呪い」(p380)でもある愛を体験した「私」は、他に誰も愛することができないままミドル・クライシス(中年の危機)を迎えることとなる。

(注2)『ノルウェイの森』の直子は恋人のキズキを失ったことから精神を病んだ女性として描かれている。長篇第1作『風の歌を聴け』で語られる自殺した3人目の女の子とモデルは同一であるという説も存在する。

「私」は17歳のときの喪失体験を忘れることができないまま45歳になる。彼にとっての時間はその時点で止まっており、すこしも先に進んでいない。大学時代に他の女性を愛そうとしてみたが、うまくいかずに傷つき、さらに孤独を深めることとなった。「私」は惰性で動いている人形にすぎない。しかし惰性にも限界がある。彼は自らの夢のイメージに導かれるかたちで東北のZ**町図書館に職を求め、子易さんとの邂逅を果たす。

子易さんは、独特の喋り方をする、この世とあの世のあわいにいるかのような不思議な存在として登場するが、これはたとえば『羊をめぐる冒険』の羊男、『騎士団長殺し』の騎士団長のような村上作品におけるストックキャラクターの一種である。さらに彼が特徴的なのは男性であるにもかかわらずスカートを履いていることだが、これは「私」がロシア五人組のうち軍人でもあったキュイの名前だけ思い出すことができないのと合わせて、反LGBT法により性的マイノリティーの権利を厳しく制限しているロシアおよびロシア的な価値観にノーを突き付ける作家としての立場表明ともとれるのではないか(あるいは、近年ようやく日本においても社会的に認知されるようになってきた多様な性への言及とも)。子易さんはあくまで村上春樹的なストックキャラクターではあるが、彼自身の物語もしっかり書き込まれているため、作中においては思いのほか魅力的な人物であると感じた。彼が重要な人物であるのは、ひとつには「私」の前任の図書館長であるからだが(これは後述する「共同体」のテーマと関わる)、もう一つは「私」と同じように「混じりけのない純粋な愛」(p380)とその喪失を経験しているからである。

第44章では、図書館の半地下の部屋で「私」と子易さんが愛をめぐる対話を繰り広げる。「意識の奥でひそかに予想していたように」(p371)とあるが、場所は確かに図書館の中であるとはいえ、ほとんど「私」の心象風景の具体化のようでもある。子易さんは生前、最愛の妻と幼い息子を失うという痛手を負っているが、これは「私」自身の喪失体験と重なる。彼が語る愛とは、「年齢の老若とか、時の試練とか、性的な体験とか、」そういったことは問題とならず、ただ「自分にとって百パーセントであるかどうか」だけが重要というものだ(p380)。村上の初期の短編に「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」(『カンガルー日和』所収)があるが、個々の要素や条件を超越した本質としての相手にいやおうなく惹きつけられ真正面から向き合うこと、これが『街』においてあるべき愛のかたちとして提示される。

「私」がコーヒーショップの女性店主を自宅に誘うくだりは、いわば子易さんが「私」に伝授した百パーセントの愛を実践できるかどうか試されている部分のようにも思える(注3)。自宅でイカとキノコのスパゲティと小エビと香草のサラダを作り、冷蔵庫でシャブリまで冷やして彼女を待っているという描写をみると、そこに至るまでの段階を踏んでいるぶんリアリティがあるとはいえ、思わず初期の村上作品の世界の中に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚えてしまう。中期以降、村上はそういった描写を封印していた。しかしここに来てそのような描写が復活するというのは、もちろん文学的な効果を意図してのことだ。それは彼が繰り返し描き続けてきた男と女が性愛によって結びつく物語からの転換であり、「一人称単数」で描かれた自己批判をさらにおし進めたものでもある。店主の描写が「ほっそりとした体つきの、とりたてて美人とは言えないまでも、感じの良い顔立ちの女性」(p365)であったり、「私」とのあいだで交わされる会話が非現実的かつ抽象度マックスなものであったりと(「もっと仮説的なものごと」から自らを防御するための特別な下着っていったい何だ?)、村上の自己批判ないし自己解体は中途半端に思えなくもないが、性愛ではなく精神的な愛によって結びつくというパターンが村上文学にとって新しい展開であることは確かだ。

(注3)じっさい、女性が帰っていったあとに「私」は子易さんの助力を求めている(p587)。

居場所を求める者たちの共同体というテーマについて

「でも君はあとに一人で取り残されてはいない」(p545)

『街』は「継承の物語」であると同時に、共同体についての物語でもある。「私」は子易さんから図書館(彼が個人的にこしらえたもの)を引き継ぎ、最後はその「私」が図書館を「街」への移行を真剣に望むイエロー・サブマリンの少年(以下「少年」と表記)の手に委ねることになる。図書館に居場所を見出した少年はそれを引き継ぎ(比喩的には図書館になり)、最後には「私」を救うことになる。これは作中の、居場所を求めて彷徨する者たちの共同体の重要な一部をなすものだ。

『1Q84』のふかえりはディスレクシアとともに驚異的な記憶力を有する少女として描かれていたが、『街』における少年もまたサヴァン症候群やカレンダーボーイの特徴を有する人物として造形されており、自らの特性ゆえに現実世界に居場所を見つけられずにいる。彼は中学校に通っておらず、毎日「私」の図書館にやってきては大量の本をかたっぱしから読み、ひたすら記憶していく。そこには何の脈絡も体系も存在しない。知的好奇心を満たすという目的はあるのかもしれないが、それすら実際のところはよくわからない。

個人的に、このM**くんという少年は少なくとも部分的には若かりし頃の村上本人がモデルなのではないかと思う。2015年のことだが、神戸の母校の貸し出しカードをもとに、村上が高1でジョゼフ・ケッセルを読みふけっていたという記事が地元の新聞に掲載され、それがプライバシーの侵害ではないかと問題になったことがあった。僕もこれは問題だと思うけれど、一番の問題は誰もケッセルを読んでいないということである。僕も読んでいない。読んでもいないのに、村上くんは高1で高尚なフランス文学を読みふけっていたんだなあ程度の理解で公開に踏み切るのは、それに関わった人たちが浅はかなだけだと思うのだが、いかがだろうか。意外なことに、村上はサドやユイスマンスを耽読していた!とかだったら面白かっただろうけど。彼はもともと図書館という空間を好んで作品に登場させるが、それにしても滅多にないスキャンダルっぽいことが高校時代の図書館利用歴を無断で公開されることだというのは、何かこの作家の本質にふれるものがあるような気がしている。

話をもとに戻そう。少年は図書館にある本をつぎつぎに記憶していき、結果的に彼自身が知の結晶である図書館と化し、唐突に壁抜けを経験し「街」へと移行した「私」が現実世界に戻ってくる助けになる。この部分的には作者自身の投影である少年は、「私」自身の大切な一部であって、だからこそ「街」の世界で彼と一体化したことで、物語は『世界の終り』の結末とは真逆の方向へと進んでいく。現実世界から姿を消した少年は「私」の見る夢(ダンテの「暗い森」(『神曲』地獄篇の冒頭部分)を連想させもする)の中で人形になっており、「私」の耳たぶに噛みつく。これはいわば「私」が「きみ」との交流によって負った傷の再演あるいは反復であり、「私」自身が推測しているように(p570)、彼のことを決して忘れさせない意図が込められているのかもしれない。

結果的に、少年によってつけられた傷は、「きみ」を喪失することによって受けた呪縛を解き放ち、損なわれてしまった自己を完全なものにする。痛みを伴わない自己喪失や自己回復はないということだろうか。子易さんの妻が姿を消し、寝床には二本の葱がおかれていたというエピソードが不可解でありながら個人的にこれ以上はないというくらい具体的なイメージとして強烈に印象に残っているのだが、少年の人形が「私」の耳たぶに噛みつく場面からも『雨月物語』にしばしば言及している村上の怪奇趣味がうかがえるように思う(葱のほうは不勉強な自分には何のことかさっぱりわからないのだが、調べてみる価値はありそうだ)。

かくして、少年との交流によって「私」はいちおう「きみ」との関係に決着をつけ自己を回復するに至るのだが、同時に少年もまた「私」や司書の添田さんによって存在を承認されてもいる。母親は彼の本質を理解しないまま盲目的な愛をそそぐ一方、父親はエリート・コースを歩む兄2人にしか関心を向けない。少年の周りには、「君はここにいていいんだよ」と言ってくれる大人が存在しないのだ。それゆえに読書好きな少年は図書館にいきつくのだが、そんな彼を何も言わずに(あくまで一人の利用者なのだから当然ではあるが)見守る「私」や添田さんは彼の庇護者であるかのように描かれている。

しかしながら、「私」やその周囲の人たちに目を向けてみると、彼ら自身も承認や居場所を必要としていることがわかる。「私」は「きみ」を失っており、子易さんは妻子をなくしており(ついでにいえば自分の命も)、コーヒーショップの女性店主は離婚を経験しているのだ。大きな古井戸があって、裏庭には猫が住み着いている図書館はまさに村上春樹的な理想郷である。そこを拠点として展開される『街』の物語は大切なものを失うという心の傷を抱えた人たちで満ちている。

子易さんが「私」と重なるのと同様に、女性店主もまた「私」と重なり合う。「私」が夢のイメージに導かれて図書館にやって来る一方で、彼女もまたみずからの居場所を求めて福島にやって来た。それはまったくの偶然であって、何ら必然的なものではない。しかし物語世界内では必然以外の何ものでもない。象徴的な意味において、「私」は子易さんであり、コーヒーショップの女性店主でもあり、M**くんでもある。女性店主はもしかしたらありえたかもしれない「きみ」の姿でもある。現実世界と「街」の世界を行き来し、ときにそれらが混ざり合って区別がつかなくなる作品構造と同様に、彼ら居場所を求める者たちは確固たる個人であると同時に、孤独なひとつの共同体を形成しているといえるだろう。

<最後に:私は信じる、落下する私を誰かが受け止めてくれることを>

いうまでもなく、「私」が長年勤めた会社を辞職しみずからに合った職を求めるくだりは、ジャズ喫茶のマスターから小説家へと転身した村上自身の経歴を下敷きにしたものである。「私」がつぎのように述べる背景には、村上自身の徹底した個人主義が色濃くにじみ出ている。

[私は] 巨大な社会を構成するいくつものシステムのひとつ、その歯車のひとつに過ぎない。それもずいぶん小さな、交換可能な歯車だ。私はそのことをいくらか残念に思わないわけにはいかない。(p189)

これは僕も実感していることだが、ある程度大きな組織になればたったひとつの歯車が欠けたところで全体が回らなくなるということは起こりえない。それがどんなに大きくて重要な歯車であっても同じだ。ひとつの歯車が欠ければ、また別の歯車がそこに取りつけられ、何事もなかったかのように全体が回っていく。取り外された歯車のことは最初から誰の記憶にも残らないか、あるいはしだいに忘却のかなたへ追いやられていく。それが組織というものの本質である。

そういった組織=システムが無数に組み合わさってひとつの資本主義社会が成立している。そしてそのような社会においては、個人の価値というものは限りなく無意味に近くなる。エルサレム賞受賞時の「壁と卵」のスピーチがいい例だが、村上がメタファーを駆使して批判し続けているのは、そういった本来かけがえのない存在であるはずの人間個人をディヒューマナイズ(非人間化)してしまうシステムのありようである。

最近ではよりよい職を求めて転職する若者が増えてきた。要は、システムを構成する歯車として酷使され、使い捨てされるような生き方を拒絶する価値観が若い世代に広がっているということだ。村上が強固な意志で貫いてきた生き方、最新作に至ってもなお微塵も変わるところのない個人主義はいまの若者にこそ強く共鳴するのである。

そういえば、宇多田ヒカルは「Keep Tryin’」(2006)のなかで「『タイムイズマネー』/将来、国家公務員だなんて言うな/夢がないなあ/『愛情よりmoney』/ダーリンがサラリーマンだっていいじゃん/愛があれば」と歌ったのだった。言っていることは本質的に村上と同じである。こちらはキャリア志向でなくても身の丈にあった仕事と愛があればいいよね、ということだが、夢の対極にあるものとして国家公務員をあげるような感性はまさしく村上春樹のそれと共通している(国家公務員をバカにするなという苦情も来たらしいけど、宇多田の意図がそこにあるわけでないのは明白である。まあでも、たしかに交換可能な社会の歯車として国家公務員以上にしっくり来る例は他に思いつかないのだけど)。

「Keep Tryin’」の歌詞は「世の中浮き沈みが激し」くても「どんな時でも/価値が変わらないのはただあなた」というエールソング/ラブソングの枠組みにおける個の肯定を含んでいる。村上春樹にあってはこの「あなた」が「私」になるわけで、物語内において世界を解釈しようとする視点、一人称単数(「僕」や「私」)は決して揺らがない。しかし個人的に『街』がそこから一歩先へ進んでいるなと感じるのは、誰かに対して自己を委ねるという考えが明確に表現されているからだ。具体的には第68章で描かれている『パパラギ』のくだりである。

「街」とは無時間的な虚空であって、もし時間が動きはじめれば椰子の木よりも高く登ってしまった「私」は致命的な落下へと移行するだろう。そうなった場合にできることは、誰かが地面にいて落下する「私」を受け止めてくれるのを信じることだけである。なんだか『ライ麦畑でつかまえて』のホールデン・コールフィールドが崖から子どもたちが落っこちるのを防ぐキャッチャーになりたいと語る有名な場面を連想させるが、こちらはあくまでとっくの昔にイノセンスを失った大人が落っこちるという仮定。大人であればそもそもそんな高いところに登らない、落っこちるのだとしたら自己責任というのがこの世界の考え方ではあるが、それでも最終的にどうにもならないときは他者を信じるしかない。そして自己の命運を他者に委ねるためには、自分自身と同様に他者を肯定することが不可欠である。

『街』における共同体というのは、ある意味互いが致命的な落下へと陥ってしまうのを防ぐセーフティーネットとしても機能しているように思うが、これもまた相互的な信頼関係がなくては成り立たないものである。セクシュアルなものを受けつけない女店主が心を開くのを信じて待ち続けること、子易さんから「私」へ、そして「私」から少年へと図書館が継承されていくこと、落下していく自己を受け止めてくれる誰かを信じることなど、『街』は多くの「信じること」の価値を強調する物語でもある。

コロナ禍を経て、もうすぐ2023年も終わる今でもロシアはウクライナを侵攻中だし、イスラエルのガザ侵攻もまた出口がみえない状況である。いまは卵にとって壁が乱立しすぎている困難な時代ではあるけれども、そのような時代だからこそ私たち一人ひとりのかけがえのなさ、喪失からの回復、信じることの意味を描く『街』は村上春樹にとって単なる過去作品の書き換えにとどまらず、彼なりのアクチュアリティを示す良書たりえていると思う。