イアン・マキューアン『恋するアダム』(村松潔訳、新潮社、2021年)

メディアでも頻繁に取り上げられるとおり、AI(人工知能)は世界各国が競って研究・開発競争を進めているところだし、いま一番ホットな分野であるといっても決して過言ではないだろう。僕自身は文系出身なのでテクニカルなことはほとんどわからないけれど、AIやロボットにはけっこう興味があって、ロボット工学者の石黒浩氏が一般向けに書いた本を何冊か読んだりしている。いずれもなかなか面白かった。これからの時代はたとえ文系であっても、一般書を数冊読んでいるといったソフトなかたちであれ、ロボットやAIに関する基礎知識を持っておくことは非常に重要になってくるだろうと思う。「教養」という言葉はもはや古色蒼然たる響きを帯びてきているというか、この実利・実用重視の時代にあっては無用の長物のようにみなされる傾向があるけれども、僕はやっぱりある程度の教養がなければ本当に新しいものは生み出せないし、豊かに生きていくこともむずかしいと考える。

さて、石黒氏にふれたところで、イギリスにはカズオ・イシグロという現代文学を代表する作家がいることを思い出しておきたい。イアン・マキューアンが2019年に『恋するアダム』(Machines Like Me)を上梓したあと、21年にイシグロは『クララとお日さま』(Klara and the Sun)を発表した。ノーベル文学賞受賞後初の長篇なので、今度はどんな作品を世に問うてくるのだろうかと個人的にも気になっていたのだけれど、フタを開けてみると、それはAI搭載の少女型ロボット・クララと病弱な少女の交流という、社会的なテーマを扱いつつも変な力みがなく、温かみに満ちた、ある意味でとてもイシグロらしい作品だった。出てすぐ原書で読み、テーマ的には2作前の『わたしを離さないで』との共通点が多いこの作品は、作者の新しい代表作になるだろうなと感じた。そして偶然にせよ、あるいは何か意図的なものがあるにせよ、イギリスを代表する作家であるマキューアンとイシグロがともにAIというテーマで小説を書き、一騎打ちを果たす構図が生まれたのだった。

一騎打ちと表現したが、文学の評価というのは単にどれだけ売れたかだけでは決まらないので、最終的には自分で読んでみて決めるのが健全なやり方というものだろう。僕自身の文学の好みからすると、この勝負は『クララとお日さま』のほうに軍配があがると思う。僕は基本的にエモーショナルな作品が好きで、クララがみずから学習し、この世界のことをすこしずつ理解していく姿には何ともいえない温かさを感じる。人は大人になればなるほど日常生活の中で新鮮なものに出合わなくなっていくが、幼いころは、目に映るなにもかも、周囲にあるなにもかもが驚異に満ち溢れているものだ。作品のテーマは「AIロボットは人間と代替可能なのか」とか「科学万能主義の時代に文学にできることはなにか」といった大きなものだと思うけれど、すくなくとも作品の表面的な雰囲気は素朴というか、ほのぼのしてさえいて好感がもてる(そしてそれはイシグロの戦略の一部なのだろうなとも感じる)。

しかし、読んでいてひたすら「すごい」と感じるのはマキューアンのほうだ。クララと違ってアダムは、僕たち読者が抱くアンドロイドのステレオタイプ的なイメージにもとづいて造形されていると思うし、キーであるキャラクターがそのように描かれている以上、『恋するアダム』の世界はいきおい冷たい雰囲気を帯びることになる。全体的にひんやりしている中にもイギリス人らしいブラックユーモアがちりばめられていて、何よりマキューアンのトレードマークともいえる、徹底的なリサーチにもとづいた細部の描写がAIというテーマと完璧にマッチしている。これを最高傑作とする声もあるようだが、それもうなずける出来栄えだ。

歴史改変小説というのは、たとえばフィリップ・ロスが得意とするところだけれど、マキューアンは、アラン・チューリングが計算機工学や人工知能の研究を続けていて、イギリスがフォークランド紛争に敗れ、ビートルズが再結成し(『ラブ・アンド・レモンズ』という、なんだかAIがXTCの『オレンジズ・アンド・レモンズ』(Oranges and Lemons, 1989)とごっちゃにして作り出したかのようなタイトルの新譜を出しているというのが個人的にツボにはまる)、なおかつAIロボットが存在している場合の1982年という、もうそれだけでお腹いっぱいな改変が加えられた世界を舞台としている。作家としての資質の違いだと思うけれど、イシグロと違ってマキューアンはとにかく微に入り細をうがった描写が特徴であり、それによってリアリティのある世界を構築することに長けている。

チャーリーの恋人であるミランダが自身の秘密を打ち明けてからの展開は一気に読ませるところであるのと同時に、「ああ、いつものマキューアンだなあ」という感じで、ある意味先が読めてしまって若干興ざめするところでもあった。平野啓一郎氏がマキューアンはどこまでいってもシニシズムしかないと評していたことがあったが、平野氏の作風を考えれば、まあそうだろうなという気がする。これがマキューアン節というものであり、近い作風としてはミシェル・ウエルベックが思いうかぶが、シェイクスピアやディケンズの伝統がある国なだけあって、マキューアンのほうがストーリー的に読ませる。とにかく読ませるのだけれど、物語の最後には何かしらの希望が描かれてしかるべきだという人にとっては、マキューアンではなくイシグロのほうがいいだろう。文学の中にロボットやアンドロイドを出すからには、そこには必然的に人道的ないし倫理的な問題が描かれることになるのだが、どうにもならなくなって最後にチャーリーがアダムに加える一撃こそがマキューアンという作家の本質を表しているようで面白い。

非常に力のこもった作品なので面白いと思う点はいくつもあったのだが、特に印象に残ったのは、チャーリーが自分には文化的教養がないので、たとえ労働から解放されて、さらには金持ちになったとしても、性的な満足や大邸宅を手に入れる以上の野心はないと考える部分だ(pp254-255)。アダムがせっせと為替取引で稼ぎを作っているあいだ、チャーリーはただひたすらミランダとセックスしているだけである。低いレベルであるとはいえ、お掃除ロボットや食洗機といったものの登場によって、僕たちは時間を金で買えるようになった。しかし、機械の力を借りてすこしずつ使える時間を増やしていったとしても、何か目標を達成したりスキルを身につけたりするために努力するとか、読書や音楽、美術といった文化的なことに打ち込むといった主体的な選択ができなければ、その時間をもてあましてしまうだろう。そしてそのもてあまし方はみんなあまりにも似通っていて、何時間もぶっ続けでSNSを見ているとか、酒を飲み続けるとか、むやみやたらとポルノやセックスに走るとか、まあその程度のことだ。ミランダには友人の代わりに復讐をやり遂げるとか、小さい子どもを養子にするとか、とにかく意志があるのに対し、チャーリーはあくまで惰性的に生きていて、彼の生き方じたいがAIロボットが普及した未来における人類のカリカチュアなのではないかと思った。