ジョン・ウィリアムズ『ストーナー』(東江一紀訳、作品社、2014年)
このところ、立て続けにアメリカの小説を読んでいる。ジュンパ・ラヒリの『低地』(The Lowland, 2013)、ジェスミン・ウォードの『骨を引き上げろ』(Salvage the Bones, 2011)、ジョン・オカダの『ノー・ノー・ボーイ』(No-No Boy, 1957)、そしてジョン・ウィリアムズの『ストーナー』(Stoner, 1965)。このチョイスに特に意味はなく、ただ単に以前から気になっていた本をやっと重い腰をあげて読みだしただけのことだ。正確にいうと、最後の『ストーナー』は最近偶然発見した小説なのだが、結果としてこれら4冊のなかで最も印象に残る作品となった。最初の数ページを読んだだけで、まず東江(あがりえ)氏による格調高い訳文に陶然となり、どんどん読み進めていくうちに、これはおそらく生涯忘れられない類の1冊になるだろうという予感がしはじめ、読み終わる頃には予感が確信に変わった。
僕の生涯忘れられない本の一冊にバーナード・マラマッドの『店員』(The Assistant, 1957)があるが、これは加島祥造氏の端正な翻訳も手伝って、十代後半だった僕に決定的な影響を及ぼした。しかし、ほとんど知る人のいない、大変地味な小説なのである。英米文学関係者を除き、そのへんの人にバーナード・マラマッドって知ってる? 『店員』っていう小説読んだことある?とたずねてみて、イエスという返事が返ってくる可能性は限りなくゼロに近いと思う。『ストーナー』を読んでいて、この地味さを自分は知っているぞと感じ、それがマラマッドの『店員』を読みながら感じたものであったことを思い出した。
ただし、マラマッドがえてして理想主義的であるのに対し、少なくとも『ストーナー』を読む限り、ジョン・ウィリアムズは純然たるリアリズムであり、理想主義はかけらも見いだせない。ミズーリ州の貧しい農家出身の少年が英文学に魅せられ、やがて博士号を取得し、大学教師となるものの、仕事と私生活の両面でたいした成功も収められないまま、静かに生き抜いていくという物語。あらすじを書きだしてみると、地味さ加減では『店員』に決してひけをとらないが、この作品についてはあらすじは特に問題にならない。これは何より感性の小説なのだ。つまり、ウィリアム・ストーナーという男の生きざまにどれだけ共感できるかにこの小説の理解すべてがかかっているということ。こういうのはいかにも玄人向けの小説であり、本物の小説を読む楽しさを知っている人にとってはまさに至福の時間をもたらしてくれるだろう。
しかし、この小説は読んでいるあいだは静かな感動に胸が満たされる一方で、読了して本を閉じてみると苦々しい思いばかりが残るという不思議な本でもある。意中の女性であるイーディスを妻に迎えたものの、彼女はヒステリックな箱入り娘で結婚生活は波乱続きだし、それもあって研究は思うように進まないし、英文科主任ローマックスとの軋轢がもとで昇任の機会を阻まれ、結局助教授(現在の准教授)どまりだし、最後は病によって生涯を閉じる。唯一彼にとって幸福だったのは、中年になって経験した女性講師キャサリンとの身を焦がすような恋だが、言ってみれば世間的にはよくあること、単なる不倫でしかない。
正直、読んでいてもどかしい場面も多々あった。なぜこんなにひどい状況におかれていて、ストーナーは自らの運命を変えるべく行動しないのかと。家族を養わなくてはならないという責任にしばりつけられて、けっきょく彼は出世を犠牲にし、生涯うだつが上がらないままである。とはいえ、もし彼の立場におかれたとしたら、たいていの人は彼と同じ道をたどらざるを得ないはずで、その認識のうちに我々はふと自分たちの人生も同じようなものではないかと思い至り、そこにやり場のない悲哀を見出す。運命を受け入れ、たんたんとした日常に時おり訪れる静かな歓びに慰めを見出す。ストーナーのその様子に我々は何かしら人生の本質にふれるものがあると感じざるを得ない。
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