アンナ・ツィマ『シブヤで目覚めて』(阿部賢一・須藤輝彦訳、河出書房新社、2021年)
「東欧の想像力」というシリーズがある。松籟社(しょうらいしゃ)という京都の小さな出版社が出しているシリーズで、「東欧」と呼ばれる地域の作家たちが書いた文芸作品の中から、えりすぐりのものを原語からの翻訳で紹介するという企画だ。僕は学生時代からこの意欲的な文学叢書が好きで、たぶん全体の半分くらいは読んでいると思う。といってもこの数年はほとんど手にとる機会もなく、東欧文学そのものへの関心も薄れていた。
そんな状況がにわかに一変したのは、たまたま図書館で借りた済東鉄腸の『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』、通称「千葉ルー」をなんの気なしに読みはじめたところ、著者のそのあまりのルーマニア愛の深さに、自分のなかに眠っていた東欧文学への興味が呼び起こされたからだ。それから僕はエリアーデの小説を読み、イリナ・グリゴレのエッセイを読み、図書館にはないミルチャ・カルタレスクの『ぼくらが女性を愛する理由』(東欧の想像力11)とギョルゲ・ササルマンの『方形の円(偽説・都市生成論)』を買い(ちなみに、住谷春也の『ルーマニア、ルーマニア』が「在庫あり」となっていたから喜々として注文したら、品切れなのを誤表記していましたと紀伊國屋書店から連絡がきて夜中にムンクの『叫び』状態になった)、映画『アンラッキー・セックスまたはイカれたポルノ』(もちろん監督<自己検閲版>)を観た。
恥ずかしながら、ルーマニアという国にかんする僕の知識は鉄腸の野郎(僕は彼にいたく感銘を受けているのでこう呼ばせてもらう)の異様な熱気につつまれた本に出合うまで、悲しいほどお粗末なものだった。なんとなく社会主義? ドラキュラが生まれた国?くらいのイメージはあったが、そんなものは知識とすら呼べない。思うのだけれど、英米文学とか仏文学、独文学といったメジャーな海外文学ですら能動的に知りたいという気持ちをもって行動を起こさなければほとんどなにもわからないのに、ましてやルーマニアである。先達はあらまほしきことなりというか、適切な水先案内人がいなければごく普通の日本人はまずなにから入っていけばいいのかわからない。鉄腸、このルーマニアに魅せられし荒ぶる魂は、僕の理解するところでは骨の髄まで異端児なのだが、これだけ短期間にルーマニア文化を僕の脳にたたきこんだという意味では、まさに適切な導き手といえよう。
ということで僕の目標リストに「主たるルーマニア文学を読破すること」が加わり、ミハイ・エミネスクの詩を英訳でちまちまと読んだりもしているが、さすがに寝ても起きてもルーマニア文学というわけにはいかない。ずっとそればかりでは飽きてしまう。そこで「東欧の想像力」を起点に、東欧文学ぜんたいにぼんやりとした関心を抱いていた学生時代をふりかえったとき、チェコ文学がご専門の阿部賢一先生の訳されたものにとくに惹かれていたのを思い出した(ちなみに、ある大学のシンポジウムで阿部先生をじっさいに目にしたことがあるが、イメージ通り、誠実に文学に向き合っておられる方という印象を受けた)。そうやって、数年間気になっていたアンナ・ツィマのデビュー長篇『シブヤで目覚めて』をようやく手にとる時がきた。
なにこれ、超おもしろい! 訳者あとがきで阿部先生が「これまでの東欧文学の暗さや重さとは異なる、きわめてポップでジャパネスクな新世代小説」(p376)と評しているとおり、僕がいままで東欧文学というものに抱いてきたイメージが一挙にくつがえされた。チェコ最大の文学賞マグネシア・リテラ新人賞をはじめ、いくつかの賞に輝いたというのにも文句なくうなずける、リーダブルかつ知的なエンタメ作品。構造としては村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』のようだが、語り手は同じで時空間だけが異なるというところは単なる物まねではないし(アキラが暗闇に閉じ込められた体験を語るところ(pp264-265)なんかはモチーフとしていかにも村上っぽいなあと感じたりもしたが笑)、作品内物語の展開という仕掛けはちょっと小川洋子の『密やかな結晶』を連想したりもした。
語り手のヤナはチェコの大学で日本文学研究に打ち込んでいるが、ヤナがクリーマといっしょに解読していく川下清丸の短篇小説「恋人」を中心にいくつかの作品が途中で挿入され、もうひとつの物語ではヤナは七年前の渋谷をさまよう幽霊として登場し、このふたつの時空間が交錯しつつ、徐々にひとつの結末へと向かっていく。きわめて技巧的な仕掛けを展開しているのに小難しい印象は与えず、それどころか、いまどきの若者にも違和感なく受け入れられるようなテンポのいい、ユーモアに満ちた文体のおかげでさらさらと流れるように読ませる。こういう爽快な読書体験は、最近の海外文学ではひさびさだった。
いちばん惹きつけられたのは、なんといってもヤナとクリーマが川下清丸の作品を解読していく描写だ。僕はわりと近代日本文学というものにも関心を抱いていて、以前、必要があって川端康成や横光利一といった新感覚派の作家たちを含む明治から昭和中期の日本文学を詳しく調べたこともある。村上のデレク・ハートフィールドと同じで、川下もまた作者の想像力によって生み出された架空の作家であるが、彼が生きていたとされる時代とその周辺の文学者たちの動向などがよくリサーチされていて、ほんとうにこんな作家がいたのではないかと錯覚するほどリアリティにあふれている。それにこの設定は、自然なかたちで謎解き要素と恋愛の要素を作品に導入するという意味でもよく考えられているといえるだろう。
日本文学に対する理解というところを抜きにしても、翻訳という営みにすこしでも興味を持つ人であれば、この作品内物語の解読の描写はおもしろいはずだ。原書はチェコ語で書かれており、ヤナが解読していく「恋人」もチェコ語で表現されているだろうが、それは普通のチェコ語ではなく、日本語原文を翻訳するかたちで生み出されたという設定のチェコ語である。さて、そのような小説を日本語に翻訳する場合、「恋人」の部分は日本語原文を翻訳して生み出されたという設定のチェコ語を読みながら、あり得たかもしれない幻の日本語原文を創作する作業という様相を必然的に帯びることになる。この明治・大正期の文体で翻訳するという至難のわざを、阿部先生と共訳者の須藤輝彦さんが見事にこなしていて、僕は非常に感動した。エリアーデの『令嬢クリスティナ』を読んだときに、作中に出てくるエミネスクの『金星(ルチャーファル)』の一節(住谷春也訳)もすばらしいと感激したのだが、最近の僕は外国語を擬古文というのか、みやびな日本語というのか、そういうものに移し替える技術に興味をもっている。
レベルが低いとはいえ、僕も英語のポップソングの歌詞を和訳したりするし、英語で本を読んだりもするから、外国語を読解するということのおもしろさも、苦しさもそれなりにわかっているつもりだ。ふと、自分が外国に生まれ育った外国語のネイティヴだったとして、わざわざ日本語を学ぶ気になるだろうか?と想像することがある。中国人や韓国人なら言語的な距離も近いが、欧米人のように日本語とまったく関連のない外国語のネイティヴだった場合、日本語を学ぶのはきっと地獄のように苦しいにちがいない。話したり聞いたりはまだましかもしれないが、読み書きに目を向けると、ひらがな・カタカナを乗り越えたうえで、さらに膨大な数の漢字が待っているのだ。僕はたぶんこのことを知った時点で日本語の習得はあきらめるだろう。僕は「文字の民」である日本人のことばは理解できない、と。
それでも、もし僕が日本語ときちんと向き合うとしたら、それは真剣に日本文化に魅せられ、強烈なあこがれを抱いている場合だろう。そういう強い動機がなければ、こんな奇怪な言語は習得できない。語り手のヤナは村上春樹や三島由紀夫、三船敏郎にあこがれていて、川端や横光、松本清張を真剣に読んでいる。それに彼女は「(…)これまで読んだのは村上だけ、好きな言葉はカワイイ、日本学に進んだのは『ナルト』のサスケが好きだからっていう学部のノータリン」(p93)とはちがうという、いい意味でも悪い意味でも若気の至り的な変なプライドを抱いているが、これは済東鉄腸のいう「周囲のやつらとちがって純文学読んでる俺、かっけぇ!」という感覚とさほど変わらない気がする。アニメとか漫画とか、そんな軟弱なサブカルには目もくれず、日本の純文学を原文で読んでる俺、かっけぇ!ということだね(ヤナは女の子だけど)。でもアンナ・ツィマが日本語を、済東鉄腸がルーマニア語を習得したように、外国語に熟達するためにはそういう痛々しいプライドによく似た強い動機が必要なんだろうなと思う。その点、英語は世界中に広まりすぎていて、「俺、かっけぇ!」があまり感じられないので、なかなか習得が難しいというのもあるかもしれない。
英語はもちろん大事だ。日本みたいに、生活の100%が日本語だけで事足りるという国で生活しているとあまり感じられないが、英語ができなければ日本語文化圏にだけしばりつけられた、広がりの乏しい人生を送ることになる。僕はそれを望まないので、すこしでも英語がわかるようになりたいと思っている。でも同時に、日本人として生まれた以上はちゃんと日本語を扱えるようになりたいし、外国語にしても英語至上主義は愚の骨頂なので、すでに錆びついてきているフランス語やドイツ語も鍛え直したいと思っている(残念ながらルーマニア語やチェコ語をやる余裕は当分なさそうだ)。……二兎を追うものは一兎も得ずというが、よほどの秀才でないかぎり、母語である日本語も義務教育の英語もまともに習得できないというのがオチである。まさに僕がそのような状態なのだが、幸いなことに、ことばのほうはいつでも扉をあけて善人であれ、悪人であれ、だれかれかまわず万人を招き入れてくれる。もちろん僕みたいな怠惰のかたまりも招き入れてくれる。この世で言語ほど懐が広いものもそうないだろう。あとは単純に意志とやる気の問題である。
『シブヤで目覚めて』は東欧文学および日本文学の双方に興味がある人にはおもしろい作品だと思うが、それに加えて自分には翻訳という営みについても改めていろいろと感じ、考えさせられる貴重な読書体験となった。
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