千早茜『ひきなみ』(角川書店、2021年)
僕は小説を読むのがわりと好きな人間だが、ジャンルとしては圧倒的に純文学が多い。これは読む本がたまたまそうなっているのではなく、かなり意識的に純文学を選ぶようにしているからである。といってしまうと「お高くとまってんじゃねえよ」と反感をもつ人も出てきそうだが、なんのことはない、中学生の頃から読んで自分にしっくるくる本はたいてい直木賞系ではなく芥川賞系の作家が書いたものであることを自覚しているのである。東野圭吾や宮部みゆきも悪くはないが、平野啓一郎や小川洋子のほうがしっくりくるんですというのは純粋に僕の感性の問題であって、自分を高尚な人間に見せたいなどという意図があるわけではけっしてない。
最近、千早茜の『ひきなみ』(2021)という長篇小説を読んだ。千早さんはその後、2022年に『しろがねの葉』で直木賞を受賞している。自分は純文学が好きだという自覚はあるけれども、ときにはその枠のなかから出たいという気分になるものだ(はっきりいって、最近の芥川賞作品はあまり感心するものがない)。思いかえすと、文学のジャンルというものを意識するようになる前は、森絵都、村山由佳、島本理生といった女性作家の作品も好きでわりと読んでいた。今回、『ひきなみ』を読んで新鮮な感動をおぼえるとともに、そんな昔の自分をとりもどしたような気持になった。
われわれ一般読者からすると、ほんとうは文学賞などどうでもいいものである。世の中は広いから、本の帯に「〇〇賞受賞!」と書いてあると、それだけでさぞ立派な作品なんだろうなと思ってレジまでもっていく層も一定数存在しているだろう。本が売れなければ食べていけない作家と出版社にとってはじつにありがたい存在かもしれないが、その一方で言語芸術としての文学の健全なあり方という観点からすると、それはそれで問題含みである。
たしかに僕もはじめて読む作家はなにが代表作なのかを事前に調べ、大きな賞をとった作品があれば参考にもする。だから平野啓一郎は『顔のない裸体たち』を最初に読んだりしなかった(そうしていたら、たぶんいまごろファンにはなっていない)。文学賞というのは、だれを読めばいいのか、なにを読めばいいのかわからない人間にとっては有効な指標として機能するのだ。せっかくお金を出して小説を読むんだったら、とうぜん駄作ではなく深い感動をもたらしてくれるもののほうがいいに決まっている。「ほんとうは文学賞などどうでもいい」と書いたが、こう考えてみると「建前」としての文学賞はないとやはり困ったことになるだろう(しかし「純文学」という呼称だけはいい加減あらためられるべきだ。そうでないと、「大衆文学」は「不純文学」になってしまうではないか)。
『ひきなみ』を読んで、こうした賞のことだけでなく、「女性」に関連する問題についてもあれこれ考えた。この作品は第一部「海」と第二部「陸」(おか)に分かれていて、第一部はとくに五感をフルに駆使した鮮やかな表現がきわだっていて、そのおかげで頭のなかにイメージを立ち上げていくのが容易であるどころか、快感すら引き起こす。その後、『あとかた』という連作短篇集も読んでみたが、この作家の心理や情景を描写する筆力にはなにかずば抜けたものがあると感じた。
ただし、やや紋切り型が多いのは気になる。『ひきなみ』でいえば、語り手の葉(よう)が真以に対していだく憧れの感情は作中で一貫していてまったくブレがないのはいいが、クールでかっこいい彼女の目は「切れ長」であって、なにか突発的な事態が発生すれば「心臓が早鐘をうつ」。思わずはっとさせられる鮮やかで独創的な表現がいちいち目にとまる文章なので、こういうのを不用意に使われると僕なんかは興ざめしてしまう。それに表現ではなく構造的な話になってしまうが、第二部は一転して「ハラスメントに耐えつづけて最後には勝利する女性」というよくある展開をなぞっていて、目新しさが薄れるところもいかがなものかと。
さて、自分のなかでこのような評価が固まったところで、作家の力量や資質はべつにして、これはもしかしたら自分が男だから正しく評価しきれない部分もあるのかもしれないなとも思った。僕は草食系の人間である。女性たちには女性たちの生や現実があって、それに対してある程度の理解や敬意を示しているつもりではいる。たとえ自分が女性の部下がいる上司だとしても、第二部に出てくる梶原部長のようなパワハラはぜったいにしない。しかし、最近の風潮をみるかぎり、この社会では男であるというだけで女性に対してある種の有害性、潜在的な加害性をもっているかのように思えてくる。これまでの日本社会がずっと男尊女卑的な考えで築かれてきたのだからそれは無理もないことだし、背後にそのような構造が控えている以上、僕個人がどうこう言ったところで無意味、だれも信じはしないのである。そして僕とおなじような気分でいる草食系の男たちも世間には一定数いるだろう。
男の自分からしたら、第二部は読んでいてにがにがしい気分になる。女性たちが抱えている苦しみや問題をまざまざとつきつけられると、これはフィクションだとわかっていてもあまりいい気分にはならない。でもたぶん、一人でも多くの男がこういうにがにがしさを味わわないと、男女平等な社会には近づいていかないだろうと思う。しかしそれだけでは当然たりない。女性が低い立場におかれてきた歴史があるからといって、強い立場にいる女性が弱い立場にいる男性を攻撃していいことにはならないし、それに男や女でわりきれないことだってある。相手の性別を理由に不当なハラスメントを加えるという行為は、たとえば同性愛者や両性愛者からみたらどんなふうに映るのだろう。多くの異性愛者にとって、そこは想像をはたらかせてみるしかないが、このような想像力こそどのような社会でも不可欠なものであると僕は考える。
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