『ゲーテはすべてを言った』(鈴木結生、朝日新聞出版、2025年)

*以下の文章は一部物語のネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。

世間的にはあまり耳なじみがないかもしれないが、小説の分野にはアカデミック・ノベルないしキャンパス・ノベルというジャンルが存在する。主人公は主として大学教師で、日々の講義や学生指導、会議を筆頭とするさまざまな雑事、さらには家庭でのゴタゴタの合間を縫って、あたかも恋人とのつかのまの逢瀬を楽しむかのように細切れの時間をつかって研究活動にいそしむ、そういう姿を描くのがひとつの類型だ。このアカデミック・ノベルがひとつの文学的伝統として定着しているアメリカでは、大学で創作の授業を担当しながら執筆するという選択はわりと一般的なものであり、作家兼教師としてバーナード・マラマッドは『新しい人生』(A New Life, 1961)を、フィリップ・ロスは『ヒューマン・ステイン』(The Human Stain, 2000)を書いた。最近だとトランプ政権下で圧力が強まっているが、そもそもこういうジャンルが生まれることじたい、研究というものに対する社会的な認識がまず根本的にアメリカと日本とでは異なっているというひとつの証左のように思える。

アカデミック・ノベルはしかし、順風満帆にいくというよりはむしろ、つぎつぎに降りかかってくる厄介ごとによって自分の仕事をする機会をことごとく邪魔された挙句、だんだんよくわからないドタバタに巻き込まれていくというような、主人公にとっては悲劇でも読者からすると滑稽きわまりない日常が話の肝だったりすることが多い。考えてみればこれはなにもアカデミック・ノベルだけの話ではなく、世の中のたいていの小説がそうである。昔なら会社員の主人公があらゆる障害を乗り越えてちゃくちゃくと出世していく物語みたいなものが盛んに読まれたかもしれないが、ふつうは彼が無事に(?)出世コースから外れて、読者にとって興味深い出来事を経験していくというパターンのほうが小説になる、というのが僕の個人的な考え。もちろん最初から変化球で勝負する小説もあるが、だいたいのベストセラーは小説の王道パターンを踏襲しつつ、そこから脱線していくときの巧妙さによって成功しているように感じる。

僕にとって最高のアカデミック・ノベルはジョン・ウィリアムズの『ストーナー』だ。詳しくは文章を書いたのでそちらを見てほしいが、これは静謐な学究生活のなかに隠れているセンス・オブ・ワンダーをみつめる作品であり、またいつかきちんと読み直したいと思っている。さてさて、ここまで本場アメリカのアカデミック・ノベルにばかり言及してきたが、ここでは本題の、あまりの完成度の高さにちょっとやそっとの小説じゃ満足しなくなっている舌の肥えた小説読みであっても思わずうならずにはいられない力作にして第172回芥川賞受賞作、『ゲーテはすべてを言った』をとりあげる。第173回が直木賞とともに異例の「該当作なし」だったため、本作が現時点での芥川賞最新作である。

ありのままの感想をいわせてもらえば、ただでさえ読む人を選ぶ芥川賞作品のなかでも群を抜いて読む人を選ぶ類の作品、でも自分には刺さりまくりの興味深い作品であった。多言語フェチにはなんともたまらん一冊。「言語」というテーマはすでにポストモダン文学ではやりつくされている観があるけれど、名言というものがいかにして生成され、権威づけられ、拡散していくかに目をつけるとは、なるほど、その手があったかとおどろく。これがインターネットという雑多なことばであふれかえった空間、およびその空間と不可分にむすびついた情報化社会とすこぶる相性がいいのは自明であるとはいえ、そこにゲーテを組み合わせるというのはだれにも思いつかないね。

あまりによくできた伏線回収はべつに気にならないが(だってこれを従来的な物語だと思って読む人なんかいないだろう)、あらかじめ予想される作品への批判を牽制したいのか、書き込みがやや過剰なところは気になる。それじたいがすでに文系学者の思考をメタっているのかもしれないが。なんでもこれを書くにあたってゲーテ関連の本を500冊くらい参照したとか(注1)。いや、そんなの20代前半の新人がデビュー作でやれることではないだろう……。だいいち英文学専攻なのにゲーテとか謎すぎるんだけど???(と、ここで鈴木さんがじつは……とかいいだすと、然(しかり)先生みたいにややこしい事態が発生しそうだが)。昭和ならこのくらいの早熟ぶりをしめす作家がいてもそんなにおどろきはしないだろうけど、いまは教養なんて誰も見向きもしない時代なんだな。スマホで一瞬で調べられることを、わざわざ常時脳に保存しておくなんて不経済なことは流行らない。

いい意味でも悪い意味でも、じじくさい小説だと思う。僕はその作家のよって立つところ、つまり文学的バックグラウンドが見える作家が好きだ。鈴木さんは作中で『樹影譚』とか『洪水はわが魂に及び』とかに言及しているとおり、丸谷才一や大江健三郎の文章から多くを学んだのだろう。僕自身はというと、日本の作家でひとりだけ選べといわれたら迷わず川端康成を選ぶので、こういうじじくささには好感がもてる。主人公は引退まぢかの大学教授・博把統一(ひろばとういち)であり、彼の周囲の人物もまた年齢層高めであるため、小説全体がほんのりとじじくささを帯びるのは当然のことなのだが、丸谷や大江のエッセンスがにじみ出たこだわりの文体がまたそれに拍車をかけている。しかし作者もそのことは計算済みであるようで、娘の徳歌(のりか)や紙屋綴喜(かみやつづき)など若いキャラクターを出すことでその印象をうすめてもいる。

鈴木さんは「意味的人間」なのだそうだ(注2)。つまり、登場人物の名前にもすべて意味を込めなくては気が済まないということ。たしかに「すべてを把握せんとする欲望」(p77)を内に秘めた統一と同僚の然紀典(しかりのりふみ)先生は対照をなしているし、徳歌なんてゲーテの中国語名「歌徳」をひっくり返したものであるというのにはたまげた。綴喜はなんだろうかと思いながら読み進めていると、『新孔乙己』なる小説の作者・驢馬田種人(ろばたしゅじん)の正体、それに徳歌の論文の執筆者が明らかになるとともに、これもまたきれいに謎が解ける。徳歌が彼の脳を自分のメモ用紙代わりにしているのだという統一の発見(P177)には正直笑ってしまった。外付けHDDかよと笑。ほかにも「済補」と書いて「スマホ」と読ませる、「もじもじする」に「文字文字する」という字をあてるなど、細かいところで作品の世界観の構築に余念がない。「万葉集と百葉箱くらいの開き」(p43)なんていう表現は、「ことば」がテーマの作品世界だからこそ出せる独特の比喩だろう。

僕はドン・デリーロの、あの登場人物が人間であるというよりはむしろ、なんらかの役割をあてがわれた機械であるかのような無機質な世界観が好きなので、こういった小説もおもしろく読める(そういえば『ホワイト・ノイズ』(White Noise, 1985)の主人公ジャック・グラドニーも大学教授だった)。でもデリーロの小説とちがって、結末が明るい大団円grand finale(この小説をよむと漢字に横文字でルビを振りたくなる)で飾られているのは、まだ若いからというよりも鈴木さん自身の育ちのよさが出ているのだと思う。お父さんが牧師だそうで、だから進まれたのがキリスト教系の西南学院大学なんだなと納得。あと、蛇足ながら笑いのセンスも秀逸。たとえば然が告発されたあと報告文に目をとおした統一が、この告発者ってもはや然のファンだろと表現するところや(P137)、徳歌のサイトを検索する統一がガンダムやら小沢健二やらに寄り道しているところ(P152)など、いかにもありそうで笑える。ほかにも僕には名前すら聞いたこともない人物だとか概念とかもいっぱいあったけれど、知識があれば笑えるネタがいっぱい仕込まれてそうだなと感じる。

「博覧強記」という最近じゃ死語?っていうくらい聞かなくなった表現は、鈴木さんのためにあるんだろうなと思う。1作目はトルストイ(「人にはどれほどの本がいるか」)、本作はゲーテだったので、つぎはディケンズ、それからメルヴィル……と、過去の文豪たちを下敷きに短篇を執筆していく計画をお持ちのようで(注2)。平野啓一郎は三島由紀夫へのLOVEがすごすぎるあまり三島を完コピするに至っているが、それとおなじくらいの熱量・誠実さをもって、鈴木さんはリミックスする。これって尋常じゃない視野の広さと綿密なリサーチがないとできないよなと思うのと同時に、文豪をリミックスせんとするその欲望じたいがいかにも学者的だなあ、若いなあと感じてしまう。おそらく、鈴木さんも自身が博把統一的な人間であることを自覚しておられるだろう。一切の無駄がない書きぶりからすると、事前にテーマを設定しておいて、それを表現するのに必要なプロットやキャラクターを造形し、資料にあたりテーマを補強する引用をさがすという一連の流れが目に浮かぶようだ。これはまさに論文を執筆するプロセスそのものであり、彼にとってはたぶん論文を書くのも小説を書くのもさほど感覚的に変わらないのではないかと想像する。

いろんな文学があっていいとは思う。しかし、一作しか読んでいないので見当違いかもしれないが、鈴木さんはいかにも身を削って書いているというふうではなく、最初はトルストイ、お次はゲーテというふうに手際よく調理していけるところがいかにもスマートで、いまどきの若者っぽいなあと感じてしまう。そもそも彼がリスペクトする大江健三郎だって、その根っこには暗くてじくじくした感情があったのではなかったか。いや、そういうものがなければ日本文学じゃないなどとはいわない。丸谷才一は日本の暗くて湿っぽい文学風土を批判していたし(その彼が村上春樹を最初から強く推していたというのはじゅうぶん納得できる話)、むしろそこからの脱却を図らなければ新しい日本文学は生まれてこないとさえいえるのかもしれない。けれども、宇佐見りんの『推し、燃ゆ』とか市川沙央の『ハンチバック』といった、近年僕が衝撃を受けた芥川賞作品とあまりにもちがうなと感じてしまうのも事実である。生きていくうえでの必死さというか、当事者性というか。

たぶん、僕は一分の隙もなく理詰めでかっちりと構成されたポストモダン文学がそれほど得意ではないという、ただそれだけのことかもしれない。たんなる知的遊戯には興味は惹かれても感動できないだけかもしれない。『ゲーテはすべてを言った』は知的なエンターテインメント作品としては非常におもしろく読めるが、これを再読したいかといわれるとなんとも微妙なところ。とはいえ、受賞後第一作となる『携帯遺産』も出ていることだし、注目に値する作家であることはまちがいないので、読んでみようかと思う。

*文中の(注)は以下のページを参照した。

(注1) 鈴木結生が芥川賞『ゲーテはすべてを言った』執筆のために読んだ本は500冊!

(注2)【芥川賞受賞記念対談】鴻巣友季子+鈴木結生