ロイド・ジョーンズ『ミスター・ピップ』(大友りお訳、白水社、2009年)

*例によってネタバレを含みますので、未読の方はご注意ください。

昨年末に『高慢と偏見』を読んだが、しばらくはイギリス文学をもうすこし掘り下げていきたいと考えている。とりあえず自分の課題図書に設定したのはディケンズの長篇群。『オリバー・ツイスト』と『大いなる遺産』は読んだことがあるけれど、ぜひとも『デイヴィッド・コパフィールド』や『荒涼館』も味わってみたい。昨年は『カラマーゾフの兄弟』の江川卓訳が中公文庫で復活したが、この3月末には同文庫から小池滋訳の『バーナビー・ラッジ』が復刊するというというのも追い風である。それにしてもこれだけ文学が読まれない時代にディケンズって攻めてるなあ。『骨董屋』とか『リトル・ドリット』とかならまだわかるけど、『バーナビー・ラッジ』って……。本国イギリスでもマイナーな部類に入るんじゃないのか。

でもまあディケンズのおそろしく長大な作品群に軽装備で挑むと途中下山になりそうなので、まずは外枠を埋めようと、ここ最近は英文学史やディケンズ関連の書籍を読み漁っていた。そのなかでたまたま図書館の棚で発見したのがこの『ミスター・ピップ』という小説。背表紙のタイトルを見てピンときたのは、『大いなる遺産』を読んだことがあり、なおかつディケンズのことばかり考えていたからだ。ふだんならまちがいなく素通りしている。人との出会いとおなじように、本との出会いにもタイミングというものがある。原著Mister Pipは2006年刊、2012年には映画化もされているのだそうだ。

ジーン・リースという旧イギリス領ドミニカ出身の白人クレオール作家がいる。一般には無名だが『サルガッソーの広い海』という一作をもってアカデミズムの世界ではしばしば名前があがる。この小説はシャーロット・ブロンテの『ジェイン・エア』を種本とし、原作では狂女として屋根裏部屋におしこめられているカリブ海出身の女性バーサほか、複数の人物の視点から語りなおしを試みることによって、原作を支えているリアリティを解体するというもの。この手のジャンルは、なんだか自分で小説を書く努力を最初から放棄しているようで、個人的にはあんまり好きだと思えない。でも最近だとパーシヴァル・エヴェレットの『ジェイムズ』(『ハックルベリー・フィンの冒険』を逃亡奴隷ジムの視点から語りなおしたもの)が全米図書賞・ピュリッツァー賞に選ばれていて、アメリカ文学界隈ではたいへん反響が大きいようだ。ただでさえ読むべき正典キャノンは数多いのに、こんなものまで読まなくちゃならんのだとしたら英文科の学生たちは大変だろう。

さて、『ミスター・ピップ』はディケンズの『大いなる遺産』を参照しているが、こちらは語りなおしではなく、あくまでメインモチーフとして扱っているだけなので、べつに読んでいなくても物語そのものは楽しめるという親切設計だ。もちろん、ディケンズが好きな人、とりわけ『大いなる遺産』が好きな人からしたら、これほどわくわくする小説もあまりないだろう。南の島のゆるゆるとした生活とそれをおびやかす紛争、そしてディケンズという組み合わせの妙である。

といっても、この手の「別作品を参照する」という文学技法は、原作を知りつくしていなければ到底できない芸当だ。パプアニューギニアからの独立をめぐるブーゲンビル島(作中では「ブーゲンヴィル」表記)での紛争。そんな過酷な現実を扱いながらも、あたたかい手ざわりに仕上がっている点は、ひとえに作者の手腕によるところだろう。かなり戦略的な小説と思うのだが、それを露骨には感じさせない描き方まで含めて。

戦略はまずチャールズ・ディケンズを採用するところからはじまっている。ディケンズがなにを象徴しているかといえば、それはなによりもまず「英国」だろう。それもいまはなき栄光に満ちた大英帝国だ。ディケンズはじっさい1992年から2003年にかけてイギリスの10ポンド紙幣に肖像が使われていたのだが、これは日本でいえば夏目漱石が千円札に描かれていたのに相当する。19世紀のヴィクトリア朝という時代はイギリス小説の黄金期であり、数々の大作家を綺羅星のごとく輩出したわけだが、そのなかで誰かひとり代表者を選べといわれたらディケンズ以外には選びようがない。なんならイギリスからひとり小説家を選ぶとしても、モダニズム以降は前時代的・感傷的として切り捨てられ、その後やっぱり再評価が進んで2026年現在でも普通に読まれているディケンズになるんじゃないのか(「文学者」という括りだとシェイクスピアになるだろうけど)。

イーヴリン・ウォーの短篇に「ディケンズ好きの男」(1933)(『イーヴリン・ウォー傑作短篇集』(高儀進編訳、白水社、2016年)所収)というのがある。南米の奥地でヘンティーというイギリス人の男がなかばとらわれの身になって、マクマスターという元イギリス人の入植者の男のためにディケンズを朗読させられるという不思議な話で、これは翌年の長篇『一握の塵』のなかでも用いられている。未開のジャングルでディケンズを朗読させられながら死の恐怖にさらされるというどう読んでも滑稽としか思えない構図は、西洋文明が植民地として手中におさめたと思いこんでいる場所が依然として暗黒そのものであって、ディケンズ、すなわち英国がそこに飲み込まれていくということを示唆しているのではないか、というのがひとまず批評的なとらえ方。ウォーは少年時代に父親がディケンズを朗読するのをいやいやながら聞かされていたらしいので、ほんとうはただ単にディケンズが嫌いだっただけかもしれないが。あるいはコンラッドの『闇の奥』を自分でもやってみたくなったのかもしれない。

『ミスター・ピップ』においては、ミスター・ワッツは単にディケンズが好きだからという理由で『大いなる遺産』を朗読しているわけではなく、みずからをディケンズやその被造物であるピップに重ね合わせることで、ブーゲンビル島という非西洋世界を生きる白人としてのアイデンティティを構築しようと試みる。そしてそれが自己欺瞞であるということもちゃんと理解している。「ピップは孤児で、自分自身と自分の運命を自分で築く機会を与えられた人です。ピップの体験は移民の体験のようなものです。生まれ育った場所を後にして、自分の力のみで生き、新しい自分を作り出す自由があります。そして間違いを犯す自由もあります……」(p101)。

ミスター・ワッツはブーゲンビル島で唯一の白人だが、その彼は肌の黒い生徒たち(メラネシア系)に『大いなる遺産』を読み聞かせながら、自分自身がだれよりも強くディケンズやピップが象徴する英国にあこがれを抱いている。あこがれが強すぎて、『大いなる遺産』の本そのものが失われても、生徒たち各々がおぼえている内容(切れ端)を持ち寄らせて、再構築することで物語をとどめようとする。物語終盤でミスター・ワッツが朗読していた『大いなる遺産』はじつはアドリブで改変されていたことが判明するのだが、これはディケンズが後年、公開朗読に精を出すようになったという事実と符合する。彼はその際、もちろん長大な作品全部を読むわけではなく、朗読にふさわしい箇所を取り出して、そこに編集を加えたものを読んでいた。その様子は一種のパフォーマーのようだったという。

またおなじく物語終盤でミスター・ワッツはアマチュア劇団の役者だったことが判明するわけだが、じつはディケンズじしんも若いころ俳優を目指しており、小説家として名をなしたあとも劇作をしたり素人俳優として舞台に立つこともあった。その関係で、45歳のときに知り合った18歳の女優エレン・ターナンと愛人関係におちいるわけだが、ミスター・ワッツが妻を捨てて、「シバの女王」で共演したグレイスのもとへ走るのはこれを巧妙になぞっているということになる。そしてグレイスはみずからの役柄であるシバの女王にとりつかれてしまって精神病院に入ることになる。演じることによる自己同一化はここでも反復される。

この物語はマティルダの一人称によって語られるわけだが、やはり終盤で島を抜け出して英国に移った彼女が書きつづったのがこの『ミスター・ピップ』であると判明する。彼女は「湿地に住むピップをミスター・ジャガーズが訪ねる場面」が長く記憶に残っているくだりだというが、それは「前触れもなく突然、人の人生が変わることがあるという考え方は、私の心に強く訴える」からだ(p194)。ここに、マティルダの未来が端的に暗示されている。黒い母親がもつ「ピジン語の聖書」と白いミスター・ワッツがもつ『大いなる遺産』のあいだで彼女は葛藤にさらされるが、紛争の悲しい結末として母親もミスター・ワッツも殺され、彼女はなかば運命的に島を離れていくことになる。そうしてのちにディケンズに熱をあげ、研究のため英国を訪れることになるが、本物のディケンズの痕跡をたずねていき、自分の知っている「ミスター・ディケンズ」はミスター・ワッツでもあったという気づきを得るラストは感動的だ。しかしながら、形としては彼女じしんがディケンズ=英国にとりつかれたミスター・ワッツを再演していることになり、やはり人種やアイデンティティの問題が背後にのこされることになる。

アメリカ文学においては人種やアイデンティティの問題はごく普通のテーマなのだが、イギリス文学においてはポスト・コロニアリズム文学の枠組みでそれが追求されるのだとあらためて感じた次第。同時にイギリス文学には偉大なるストーリーテラーにして人の心を奪うマジシャン、でも見方を変えれば稀代の嘘つきにもなるディケンズがいるからこそ、こういう小説が可能になるのだとも。物語と嘘の境界線はどこまでもあいまいだ。

最後に、あんまりこういうことにケチをつけたくないが、全体的に読みやすい翻訳なのに、じつにつまらない誤植が多い。あと注釈がほとんどないのは不親切を通り越して、もはや訳者の怠慢なんじゃないかとさえ思えてくる。作者の意向なのだろうか? たとえば「ジャングルジュース」は描写からアルコールを含む飲み物なんだなとわかるが、「ちょっとばかりの労苦を惜しんでディケンズを朗読することはできない。完熟ポーポーを食べるとき、果実やジュースをあごに垂らすことを悔やんではだめなように。ディケンズの使う言葉を発音するときは、あごが妙に動き、慣れていないと関節がかちかちと音を立てる。」(p249)の突然でてくる「完熟ポーポー」ってなんやねん、と。調べたらパパイヤのことらしい。

宮崎に8年住んでいたことがあるのだが、ブーゲンビル島もブーゲンビリアも、ブーガンヴィルというフランス人探検家が発見したのだと今さら知った。宮崎ブーゲンビリア空港からいっぱい飛行機に乗ったなあ。