インディー音楽へのいざない(女性ボーカル・2010年代中心)
だれしもすくなからず偏愛というのはあるものだ。ある対象よりも、べつの対象には格別の興味と関心をいだいているということが。多くの場合、なぜそうなるのかは論理的に説明できない。恋愛感情を論理的に説明できないのとおなじように(できたらそれはたぶん恋愛感情ではない)、人はそういった論理性からはみだしてしまう感情を何にたいしても原理的にいだきうるものだ。
僕の場合、それは英米のポピュラー音楽であって、歴史的名盤からあまり知名度がないものまで、もう20年ほどいろいろと聞きあさっている。そのなかでもインディーロック、インディーポップを特に愛好しているが、インディーポップというのはいわば「商業性を薄めたポップス」くらいの位置づけなのに、こと日本では、なぜかそのロック版であるインディーロックよりもあまり聞かれていないような印象を受ける。これはやっぱり先進的なものは必然的にとがったものになりやすく、そうすると結果としてポップスよりもロックにおさまりがちだから、というのがひとつの説明にはなるだろう。
ここでは個人的に偏愛している、ちょっと変わったポップミュージックを紹介してみたい。しかしなんらかの制限をかけなければ幅が広くなりすぎるため、インディー音楽のなかでも(1)女性ボーカルのみ、(2)2010年代中心、(3)ポップス寄りの曲調ということでやっていく。(1)については、べつに意識しているわけではないのだけど、新しめの音楽で惹かれるのは女性ボーカルが多いという理由から。また(2)については、いちばん自分が音楽に対して感受性が豊かであったのが10代から20代を過ごした2010年代という理由による。最後に(3)だが、このジャンルの魅力を知ってほしいので極端すぎるものは取り上げない。
洋楽初心者でもわりと聞きやすいかも
チェアリフト(Chairlift)の「アマナムニージア」("Amanaemonesia")。セカンドアルバム『サムシング』(Something, 2012)に収録。このタイトルがなにを意味しているのかは定かでないが、どうやら"amnesia"(記憶喪失)と関係があるらしい。
このユニットにはリアルタイムではまって、アホほど聴きまくったのはじつにいい思い出。なんというか、チェアリフトこそが正統なインディーポップの精神みたいなものをよく表していたとさえ思うんだよね。ボーカルのキャロライン・ポラチェク(Caroline Polachek)は幼少期に日本での生活を経験しており、そのときにJ-POPやアニメの影響を受けたそうだが、それがいい意味であまりアメリカっぽくない音作りにつながっているのかもしれない。キャロライン本人によるこの謎のパフォーマンスはモーリス・ベジャールの『ボレロ』へのオマージュらしい。
ミツキ(Mitski)の「ノーバディ」("Nobody")。アルバム『ビー・ザ・カウボーイ』(Be the Cowboy, 2018)に収録。
僕がミツキを「発見した」2016年頃、彼女は一般にはあまり知られていない存在だったのだが、最近ではSNSを中心に大きな注目を集めるようになっている。“My Love Mine All Mine"の記事はこのブログのなかではわりと見られているほうだ。ある意味、"nobody"ということばほど彼女をよく表すことばもないだろう。ニルヴァーナと70年代の日本の歌謡曲が出会ったような音楽性なので、激しくも抒情的なナンバーが多い。しかしカート・コバーンがセンスの塊であったのと同様、彼女もセンスの良さ、音楽的な引き出しの広さでは抜きんでたところがあると思う。
イギリスのシンガー、レイ・モリス(Rae Morris)の「クローサー」("Closer")。デビューアルバム『アンガーディッド』(Unguarded, 2015)はよくできたポップアルバムだった。
“Love Again"がH&Mで流れているのを聞いたことがあるが、たしかにカジュアルなアパレルショップとかで流れてそうな感じ。でも彼女の歌声はただ聞き流すにしてはちょっと個性を主張しすぎている気がする。なんというか、ひっかかりがあるんだよね。同じ「レイ」でも、カーリー・レイ・ジェプセンとはぜんぜんちがう。
テレパシー(Telepathe)の「スロー・ラーナー」("Slow Learner")。
デイヴ・シーテックがプロデュースした『ダンス・マザー』(Dance Mother, 2009)は自分の好きなアルバムだった。あたりさわりのないエレクトロ・ポップなんだけど、こういうのもあってくれないと困る。
カナダ出身のバンド、レヴェリー・サウンド・レヴュー(Reverie Sound Revue)の「ユー・ドント・イグジスト・イフ・アイ・ドント・シー・ユー(私に見えないのなら、あなたは存在しない)」("You Don’t Exist If I Don’t See You")。
タイトなドラミング、きらきらギター、けだるいロリータボイスなんで、日本でたとえると相対性理論といったところか。僕はこのグループをブロークン・ソーシャル・シーンの『フォギヴネス・ロック・レコード』(Forgiveness Rock Record, 2010)をとおして知った(リードボーカルのリサ・ロブシンガーが"All to All"という曲で歌っていたのが印象的で)。リサの歌声はちょっとホープ・サンドヴァルを彷彿とさせるところがあるのだが、けだるくはあっても退廃的ではない。曲調もあいまってじつに健全という印象を受ける。
普通の洋楽に飽きてきた人向け
さらにカナダから。ファイスト(Feist)の「インサイド・アンド・アウト」("Inside and Out")。
“I am the girl who loves you inside and out"(私はあなたをまるごと(=内側も外側も)愛する女の子)なんて、ちょっといわれてみたいフレーズだ。ファイスト姐さんもかつてはインディーシーンのディーヴァみたいな扱いだったっけな。映画『(500)日のサマー』で"Mushaboom"がBGMに使われていたのを覚えている。最近のアルバムは残念ながらそんなに印象に残ってはいないけれど。
さらにさらにカナダのアーティストを。リディア・エインズワース(Lydia Ainsworth)の「ワット・イズ・イット?」("What Is It?")。セカンドアルバム『ダーリン・オブ・ジ・アフターグロウ』(Darling of the Afterglow, 2017)に収録。
この人はなにがきっかけで知ったのかまったく記憶にないのだが、非常に好み。
ホリー・ミランダ(Holly Miranda)の「ウェイヴズ」("Waves")。デビューアルバム『ザ・マジシャンズ・プライベート・ライブラリー』(The Magician’s Private Library, 2010)に収録。
デイヴ・シーテックがプロデュースしているアルバムなので、やたらと清潔で夢幻的な音像という印象。アルバム全編が夢かうつつかわからない微妙な雰囲気で満たされており、こういうのがまさに典型的なドリームポップなのだろう。しかしながら、ホリーのキャリアのなかではこのデビュー作はかなり異質なものであり、その後のアルバムやEPで聞けるうす味のプロダクションこそが、彼女がほんらい志向する音なんだろうなという気がする。
ダーティー・プロジェクターズ(Dirty Projectors)の「アバウト・トゥ・ダイ(死にかけ)」("About to Die”)。アルバム『スウィング・ロウ・マジェラン』(Swing Lo Magellan, 2012)に収録。
これは例外的に男性ボーカルだが、アンバー・コフマン(Amber Coffman)とエンジェル・デラドゥーリアン(Angel Deradoorian)という個性きわだつ二人が在籍していたのでおおめに見てほしい。それにダーティー・プロジェクターズはデイヴィッド・ロングストレス(David Longstreth)のソロプロジェクトだから、ここはやっぱり彼のボーカルでないと務まらないとも思うのだ。個人的に、アンバーとエンジェルがいたころの『ビッテ・オルカ』(Bitte Orca, 2009)に思い入れがあるのだが、あたたかみや統一感があるという意味ではこの『スウィング』を推したい。
ダーティー・プロジェクターズを去り、ソロデビューを果たしたアンバー・コフマンの『シティ・オブ・ノー・リプライ(返事のない街)』(City of No Reply, 2017)より。
ロックでもポップスでも「インディー」と名のつく世界はとくにヘタウマ歌手が多いと思う。でも「スティルネス・イズ・ザ・ムーヴ」("Stillness Is the Move")を聞けばわかるとおり、アンバーのボーカルはR&B歌手並みにパワフルである。しかし皮肉なことに、歌がずば抜けてうまいということがダーティー・プロジェクターズの音楽性とかみあっておらず、この曲だけ完全に浮いているように聞こえる。彼女の歌声は華やかで存在感があるので、その資質を活かす方向に進んでいったのは正解だろう。
ワイズ・ブラッド(Weyes Blood)ことナタリー・メリングの「エヴリデイ」("Everyday")。アルバム『タイタニック・ライジング(浮上するタイタニック号)』(Titanic Rising, 2019)に収録。
アート・ポップ、バロック・ポップ系の人で、ジュディ・シルとかのキリスト教色が濃いミュージシャンの流れを汲んでいるかと。そもそも芸名もカトリック作家、フラナリー・オコナーの『賢い血』(Wise Blood)から取られているし。この曲にこのB級ホラーのビデオをあわせるとは、じつはけっこうサイコな人なんじゃないかなという気がしている笑。あるいはアメリカ南部人にしかわからない感覚なのか。グロいのが苦手な方はご注意を。
ワン・リトル・プレーン(One Little Plane)ことキャスリン・ビントの「ペーパー・プレーンズ(紙飛行機)」("Paper Planes")。セカンドアルバム『イントゥ・ザ・ツリーズ』(Into the Trees, 2012)に収録。
これはたしかレディオヘッドのコリン・グリーンウッドが推してたとかで聞いたんだったか。レディオヘッドってなに?という人はググってみてください。よくいえば世界でもっとも革新的なロックバンドのひとつ、悪くいえば中二病御用達のあの人たちのことです。
完全にマニア向け(お好きな人は…まあいいんじゃないでしょうか)
セイント・ヴィンセント(St. Vincent)ことアニー・クラークの「サージョン(外科医)」("Surgeon")。アルバム『ストレンジ・マーシー』(Strange Mercy, 2011)に収録。
僕はこのアルバムを一種の感銘とともに聞いたものだった。一般論として、人が音楽を聞くのは気持ちよくなりたいからだと思うのだけど、マニア向けの音楽になると、意図して不快な気分にさせようとしてくる。アニー・クラークのつくる音楽は「快/不快」、あるいは「夢/悪夢」が渾然一体となっていて、こんな表現の仕方があるのか!と得るところ大だった。初期のトーキング・ヘッズはけっこう神経症的だったと思うけれど、アニーがデイヴィッド・バーンとアルバムを共作していたりするのは、なるほどなとすごく腑に落ちる。
マリッサ・ナドラー(Marissa Nadler)の「ザ・パス・オブ・ザ・クラウズ(雲の通り道)」("The Path of the Clouds")。2021年の同名アルバムのタイトルトラック。
僕はマジー・スターが大好物なのでこういう天上の音楽も普通にいける。マジー・スターは基本的にサイケフォークだけれど、マリッサは90年代オルタナを通過したドリームポップという印象。なんというか、こういう現実からかけ離れた音楽を好んで聴いていると社会性というものが失われてしまう気がするね。でもエンヤを聴いているような人たちは品がよさそう。このちがいはなんなのか。
デラドゥーリアン(Deradoorian)の「エクスパンディング・フラワー・プラネット(膨張していく花の惑星)」("Expanding Flower Planet)。2015年のアルバムのタイトルトラック。
ダーティー・プロジェクターズやアンバー・コフマンにふれておいて、彼女を素通りするわけにはいかない。正統派的な歌もの(といってもやっぱり奇妙なんだけど)を志向するアンバーに対して、エンジェル・デラドゥーリアンはアルメニア系という出自も影響しているのか、呪術的・瞑想的な要素を持ち味とする(それにしても「アンバー」(琥珀)とか「エンジェル」(天使)が本名というのがすごい)。純粋な歌もので、かろうじて商業作品として成り立つのはこのくらいが限界なんじゃないか。これ以上になってくると、どういう文化圏のもとで鳴らされていて、どういう文脈で聞けばいいのかがわからなくなってくると思う。








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