YOASOBIの音楽について思うこと

2024年2月7日

2020年、コロナが流行り出した年にSpotifyで見つけた曲に惹きつけられた。YOASOBIの「夜に駆ける」。流行っているのは何となく知ってはいたが、ちゃんと聴いてみるとあっという間にはまってしまった。それから僕はたちまちファンになり、一時期このユニットの曲ばかり聴いていたことがあった。……でも飽きるのも速かった。「夜に駆ける」も「群青」も「怪物」も抜群にキャッチ―で話題性十分だったけれど、彼らが(優しい)彗星のごとく表舞台に登場してから数年たち、今では積極的に聴きたいとは思えない。

彼らが爆発的に売れたのは、マーケティング戦略が成功したからとかPVが素晴らしいからとか、そういう音楽性とは関係のない部分によるところも大きいだろう。要するに、彼らの音楽には一瞬で人を惹きつける力はあっても、長く引き留めておく力はないということなのかもしれない。しかし、この情報過多の時代に一瞬でも人の注意を釘付けにするというのは並大抵のことではないし、実際YOASOBIがまだまだ謎めいたグループだった2020年ごろには、この先どんなふうになっていくのだろうという期待のほうが大きかったはずだ。

YOASOBIのどういうところにはまったのかを整理してみると、まずメロディのよさ。すでにいろんなところで語られているけれど、バックの演奏は現代的なものであるのに対して、メロディのほうはむしろ歌謡曲的である。「夜に駆ける」のメロディはそもそも生身の人間に歌えるものなのかどうか疑問だが(以前『情熱大陸』のなかでikuraが息継ぎの問題についてふれていたのを思い出す)、「たぶん」や「優しい彗星」といったミドルテンポの曲からは最近のJ-POPというよりは歌謡曲に近い印象を受ける。ikuraのボーカルは親しみやすくて、清涼感にあふれていて、無感情というか、不思議なくらい奥行きに乏しい。僕はこの声が好きで、他のボーカルだったら、YOASOBIにこんなに夢中にはならなかった。

もうひとつは歌詞。変に英語を混ぜたりせず、日本語で丁寧に歌い上げているところがいい。今の若者たちはアーティストの世界観とかコンセプトなんかに重きをおくそうだが、小説を音楽にするというアイディアはとても斬新だ。EPのタイトルをTHE BOOKでシリーズ化するところにもこだわりが感じられる。まあ、NEU!といっしょといえばいっしょなんだけど。余談だが、『初耳学』(2021年3月7日、14日)で林修がYOASOBIのファンということで対談したりしていたが、彼は単なるタレントではなく現代文のプロでもある。そういう人間がYOASOBIを好きということは単なる趣味の問題ではなく、自らの日本語のセンスの良し悪しを全国にさらけ出すことと同じなので、相当なものだろう(歌も披露していたが)。作曲能力ばかりが取り上げられるが、作詞もすぐれているAyase。Don’t judge a book by its cover.(本を表紙で判断するな)ということか。

YOASOBIの音楽は、何かにたとえていうと、季節はさわやかな風が吹く初夏、明るい太陽の下で、部活の練習を終えた女子高校生が友だちとおしゃべりしながら飲む清涼飲料水みたいなものだと個人的には思っている。中高生ならまだしも、いい年した大人がYOASOBIを心の底から好きだということはできない。以前、『映画を早送りで観る人たち』という本について文章を書いたが、それとの関連でいえば、YOASOBIの音楽は典型的なファスト・ミュージック、もっぱら消費されることだけを目的とした音楽なのかもしれない。そう考えれば、最初からオーディオで再生することなど想定していないかのようなチープな音質にも納得がいく。ローファイ(Lo-Fi)というジャンルがあるが、あれは意図的にチープな音作りを志向するものであって、YOASOBIの場合はそういう何らかの効果を意図したチープさであるようにはとても思えない。

でもそれ以上に問題だと思うのは、耳に心地よく響く彼らの音楽にはアーティストとしての思想が一切含まれていないということである。その思想というものは、表現者自身が人生を生きるなかで感じたり考えたり、見聞きしたりすることに根ざしているはずなのだが、そういうものいっさいが欠落してしまっている。小説を音楽にするというコンセプトだが、見方を変えれば物語という虚構から音楽という別形態の虚構を生み出しているだけであって、そこに現実と接点を持とうという態度を見出すことはむずかしい。

いまではなかなか信じられない話だが、芥川龍之介は「羅生門」を発表したとき、「人生をまじめに生きていない」ということで当時の文壇から批判されもしたという。たしかに、古今東西の古典に取材し、広範な読書に支えられた芥川の作品はそれだけで自律しているような、ある種現実から遊離しているようなところがある。「地獄変」の良秀のように、芥川にとっては芸術こそがすべてであり、だからこそ創作力が衰えていくにつれて生きる力をも失っていき、晩年はつまらない私小説を残して自殺してしまった。個人的には、芥川の作品は純粋な芸術への志向性というところに一貫性があって、そこに強く惹きつけられる。異常なほどの知性と繊細すぎる神経をもった人間としての芥川は不幸だったかもしれないが。

小説と音楽は違うものではあるけれど、YOASOBIの音楽が抱えている欠点は本質的には芥川の作品が抱えている欠点と同じである。技巧を凝らした小品を次々と展開してみせ、その一つひとつには興味深い仕掛けが隠されているが、表現者の魂という肝心なものがその芸術を通して伝わってこない。それでは観客は飽きてしだいに去っていってしまう。皮肉なことだが、YOASOBIの二人が再び勢いを取り戻すためには、他人が書いた物語を音楽にするというコンセプト自体からの転換を図るしかないのかもしれない。芥川は不幸な終わりを迎えてしまったが、彼らはまだまだ自分たちの音楽をより良い方向に導いていく力があると僕は考えている。

ただし、そのためにはもっといろいろな音楽を聞いて勉強し、すぐれた本を読んで表現を学び、音楽を作るための養分を蓄えることが必要だ。どんなに才能があっても、インプットが不足していればいずれ才能は枯渇し、何も作れなくなってしまう。全盛期はとっくの昔に過ぎていると思うけれど、それでも彼らはまだ何かあっと言わせるものを放ってくるような気もするのである。

J-POPYOASOBI,夜に駆ける

Posted by Kenny