映画『あのこと』(L’Événement, 2021)メモ

2024年2月7日

僕は文芸作品の映画版を観たら、基本的にそのあと原作を読むことはしないようにしている。いちおう僕も社会人として日々仕事に勤しんでいる身だし、好きな洋楽の歌詞を訳したり、自由気ままに小説を読んだり、映画を観たり、そういったこと以外にやらねばならないことを山のように抱えているのだ。しかし、時にはその自分ルールを逸脱せねばならない作品に出合うこともある。

オードレイ・ディヴァン監督の2021年の映画『あのこと』(L’Événementを観た。原作は昨年ノーベル文学賞を受賞したアニー・エルノーのメモワール『事件』(L’Événement, 2000)。アナマリア・ヴァルトロメイがふり向いてこちらをじっと見つめているビジュアルに、その眼力に何かただならぬものを感じて、自分にとっては、公開当初から気になっていた「あの」映画だった。「<観る>のではなく、彼女を<体感する>。かつてない鮮烈な映画体験。」というキャッチコピーは決して誇張ではなく、映画を観ているときの僕は自分自身の年齢も性別も人種も越えて、1960年代のフランスでひとり妊娠という現実に直面し苦悩と葛藤の日々を過ごす女子大生になっていた。稀有な体験をさせてくれる作品である。

望まない妊娠をした女子大生が何とかして堕胎しようと奮闘する。あらすじは言ってしまえば、それだけである。女性であれば、どこの国の誰であっても経験する可能性のある出来事。しかし、それが自分の身にふりかかってきたときのショックはまさに実存的な恐怖であって、女性全般の普遍性を離れて一気に個別性を帯びることとなる。この映画の焦点はまさにそこにあると感じた。エルノー作品は『シンプルな情熱』(Passion simple, 1991)しか読んだことがないが、そのときの感触からして、原作は感情を極力排した記録のようなものではないかと想像する。原作がフィクションでもノンフィクションでもなく、厳密にいうとメモワールと位置付けられている事実はエルノーという作家を考えるうえでは非常に重要だ。ただ、忠実な映画化ではなく、女性監督らしいこまやかで優美な画とともに主人公没入型の作品に仕上げたのは正解だと思う。

この映画において、アンヌのお腹のなかで成長してゆく胎児は、彼女の輝かしい未来を破壊する時限爆弾として描写されている。輝くような美貌と文学的才能に恵まれた、性的に奔放な若い女性。そもそも妊娠してしまったのは、あなたの軽率な行動のせいでしょ、などと言ってはいけない。それはこの作品の本質を何もいい当ててはいない。すぐに男に身を任せてしまう刹那主義や快楽主義、それに自分の未来のために胎児の命をかえりみようとしない自己中心性など、醜い面をも含めて、一人の女性の体験がありのまま提示されているというところにこそ、この作品の真価があるのだと思う。

望まない妊娠をした若い女性が、どうすることもできずにトイレで出産し胎児を死なせたとして逮捕されるというような話はごくありふれたものである。結末においてアンヌは女子寮のトイレで(望んだとおりに)流産してしまう。汗びっしょりになり苦悶の表情を浮かべる彼女が便器にまたがり、ことを終えるシーンはホラー以外の何ものでもない。彼女は「無理」などといって、へその緒につながった肉塊を見ることもできず、友人に処置をさせる。映画が冷徹に描き出しているのは、目を覆いたくなる光景であり、人間としてのアンヌの弱さ・醜さである。こうして、彼女の物語は恐怖・苦痛・輝ける未来の展望とともに、最後には多くの名もなき女性たちの、多くの死んでいった赤子たちの中の一例に過ぎないものになる。

女性のなかにも、アンヌのような人物を非難する人はいくらでもいるだろう。しかし、僕は男なのであくまで想像するしかないのだが、女性がこの作品を観たら多かれ少なかれ賛否が分かれたとしても、深い部分では誰もが共感を覚えるのではないか。というのは、妊娠・出産は女性にとって重要な意味をもつ出来事であるのに、女性たちが産む・産まないを決める権利は、決して産むことができない性である男性たち中心の発想によって厳しく制限されてきたからだ。1960年代のフランスでは堕胎が有罪であったがゆえの物語なのだが、時と場所が違えば、アンヌが堕胎を求めて必死に闇医者にすがりつくこともなかっただろう。

新しい命を産み出すという行為は、見方によっては神の御業とうりふたつの神秘的な行為であるとともに、別の見方をすると人類(というかあらゆる生き物)が太古の昔から繰り返し行い続けている、これ以上はないといってもいいほど現実的な行為である。ケイト・ブッシュの「ディス・ウーマンズ・ワーク」(“This Woman’s Work”)を思い出すが、「仕事、労働、作品(を生み出すこと)」である出産という行為は、女性自身、そしてその行為に関わる男性自身の喜びにもつながるというものだが、話はそう単純ではない。産んだあとは、当然子育てが待っているし、職場に復帰してこれまでと変わらず仕事をしたい(あるいは、経済的事情によってせざるを得ない)と考える人がいまは多数派な時代だ。大事なことは、確かに出産は女性が行う行為だが、そこには男性も責任として関わるのだから、女性たちが妊娠・出産、そしてあとに続く子育て・仕事のことで不当に悩まないでいい社会をいっしょに作っていくことなのではないかと思う。社会的に僕ができることといえば何もないに等しいが、この映画が素晴らしいものであると声を大にしていうことはできる。世の男性たちは、女性の裸を見たり想像したりして欲情するのも結構なことだけれど、たまにはこういう作品にふれて何か切実なものを感じ取ってもいいのではないか。

(2024/1/5追記)

原作を読んだ。エルノーという作家は、自身が経験した生=性の生々しい本質を冷徹なまなざしと客観的な記述によってとらえようとするが、そのメチエ(手腕)の確かさには瞠目せざるを得ない類の書き手だと思う。あくまで冷たいテキストではあるけれど、読後、僕の胸には熱いものが残った。言葉というメスを使った解剖学みたいだ。「わたしにとっては人間経験の総体のように思えることを、こうして言葉にし終えたわけである。生と死の経験、時間の、道徳とタブーの、法律の、経験、この体を通して始めから終わりまで生きた経験を。」(アニー・エルノー『事件』菊池よしみ訳、早川書房、2022年. p204)この難物を見事に映像に置き換えてみせたデイヴァン監督のメチエもまた素晴らしいとしかいいようがない。