映画『ノルウェイの森』メモ

トラン・アン・ユン監督の映画『ノルウェイの森』(2010)をひさびさに見返してみた。村上春樹原作の映画化としては2021年の『ドライブ・マイ・カー』がけっこうよかったのでいつかこちらも再視聴してみようと思っていたのだが、それから3年近く経ってようやく機会を得た。なぜこれほど時間がかかったのかというと、僕にとって『ノルウェイの森』はそもそも好印象を抱ける類の作品ではなかったからだ。原作は中学校時代に読んだ。僕が持っているあの赤と緑のクリスマスカラーみたいな装丁の文庫本の帯(下巻)には「激しくて、物静かで哀しい、一〇〇パーセントの恋愛小説!」というキャッチコピーがついているのに、じっさい読んでみたらやたらと性愛描写が多く、本当は人がバタバタ死んでいく不気味な恋愛小説なんじゃないかという、そのくらいの感想しか持たなかった。

頭のなかが四六時中女の子のことでいっぱいな中学生男子にとって性描写が多すぎるのは悪いことではない。それはむしろ歓迎すべき要素だ。しかしそれにも限界があって、だんだんそそる描写だけでは満足できなくなり、「で、この話は何だったの?」という欲求不満にいきついてしまう。『ノルウェイの森』は、物語を読むうえで満たされてしかるべき欲求が満たされない、つまり、これはなになにがテーマの作品であるとか、これはなになにを描いている作品であるという、自分なりのわかった感をいっさい与えてくれない不親切な小説だった。これには中学生の僕は面食らった。なにしろ、このようなタイプの小説をそれまでに読んだことがなかったから。ワタナベはいろんな女性と関係を持つが、彼は最後まで決して満足することがない。それはどれだけこの小説を読んでも満足することができない僕自身の感情をなぞっているようだった。

日本屈指のベストセラー小説の映画化ということで世間でも大きな話題になった。当時、僕はレディオヘッドに夢中になっていたので、ジョニー・グリーンウッドが音楽を手がけているというのには多少興味をひかれたはずだが、鑑賞後、映像や音楽はきれいだったなと思う一方で、『ノルウェイの森』のわからなさはよりいっそう増した。松山ケンイチ(ワタナベ)、菊地凛子(直子)、水原希子(緑)といった主要キャストだけでなく、キズキもレイコも永沢もハツミもすべてが想像どおりで、これについては申し分ない。糸井重里や細野晴臣がチョイ役で出ているのもいい。映画としての完成度はすばらしいものだと思う。しかし、『ドライブ・マイ・カー』を観たときもほぼ同じ感覚になったが、村上春樹の小説世界を忠実に実写化すると会話の違和感がきわだってほとんど笑い出しそうになってしまう。

たとえば、ワタナベが永沢・ハツミといっしょに食事をする場面(原作だと第八章)。永沢に誘われてワタナベが女の子を取り替えて寝たという話にハツミは嫌悪感を示す。何のためらいもなく女性を性欲解消のための道具にする永沢と、罪悪感を覚えながらその行為に加わってしまうワタナベ(注)。初音映莉子演じるハツミがワタナベの話を聞くときの表情が真剣に嫌そうで引き込まれるのだが、そのあと彼女の口から出るのは「あのね、ワタナベ君、どんな事情があるか知らないけれど、そういう種類のことはあなたには向いてないし、ふさわしくないと思うんだけれど、どうかしら?」(『ノルウェイの森』下巻、p123)という台詞である。字面でみればそれほど違和感はないが、じっさいあの映像のなかでは違和感しかない(笑)。ありきたりな会話だとせいぜい「ワタナベ君、見損なったわ」とか「ワタナベ君、もうそんなことはしないでね」といったところだろう。そもそも会話を含めて春樹の文章じたいが普通の日本語とかけ離れているので、映像化して違和感があるということは忠実な映画化であるということの証なのだろうけど、それが致命的なまでに作品の臨場感をそいでしまっている。身も蓋もないけれど、春樹の小説は映画化などせず、読者の脳内で完結させたほうがずっと美しいのではないか。たとえ現実世界を描いているようにみえても、それは多くの場合、主人公の心象風景の投影に他ならないのだから。アダプテーションの問題を考えるのにはうってつけの作品かもしれない。

(注)永沢は東大法学部生だが、2019年に姫野カオルコが出した『彼女は頭が悪いから』を思い出す。時代が変わってもエリートの意識は変わらないということか。

映画版『ノルウェイの森』が描き出そうとしているのは、一瞬だけふれあってまたすぐに離れていくことを繰り返している行き場のない魂のことなのだろうと個人的には思う。ワタナベ・キズキ・直子の三者関係からなるエデンはキズキの突然の自殺によって失われてしまう。キズキと恋仲であった直子は深く精神を病んでしまう。ワタナベは直子のことを愛そうとするが、それは半分は彼女を守らなくてはならないという責任感から来ている。直子もまたワタナベといっしょになることを望みながらも、心は死んだキズキのほうしか向いていない。直子との関係に思い悩んでいるところに、気丈でエキセントリックなところのある女の子、緑が接近してきて……というのが前半部分の筋だ。後半は、ワタナベが直子と緑のあいだをいったりきたりする流れになるのだが、よく緑は「生」を象徴する人物で、直子は「死」を象徴する人物であるから、ワタナベは生と死のあいだを揺れ動いているのだ、などと解釈される。しかし、僕はそのような解釈はあまりにも図式的すぎて納得できない。

この3人(最後にレイコも加わるが)をつなぐものがセックスである。彼らは自らの生の根拠として、あやふやな自己を確かなものにするための儀式として性愛を必要としている。しかし、現実的にとらえれば彼ら(特にワタナベと直子)はリビドーのほとばしりとして相手を欲しているだけで、それによって互いに傷ついたり誤解したりする。夏目漱石の『こころ』における先生・K・お嬢さんのように、一般的に三者関係は波乱を呼ぶものとして導入されるのだが、『ノルウェイの森』の世界では三者関係(ワタナベ・キズキ・直子、ワタナベ・直子・レイコ、ワタナベ・永沢・ハツミ)は安定しているのに、二者関係になるとことごとく壊れていく(キズキ・直子、ワタナベ・直子、永沢・ハツミ)。生への渇望が登場人物たちをセックスへと駆り立て、セックスが彼らを破滅―死へと追いやっていくわけで、それはまさしくリビドーとデストルドーを仲介している。そうなってくると、作品におけるセックスはほとんど現世と同義になるわけで、それなしでは生も死も存在しなくなる。相手とつながれたと思える一瞬のためだけにワタナベは節操もなく多くの女性たちと体を重ねる。そして、最後には自分がどこにいるのかわからなくなってしまう。

このように、村上春樹作品における性描写は決して読者サービスのためだけにあるのではなく、必要だから描かれているのだとみなさなくてはならない。今回、十数年ぶりに映画を見返してみて、そのような実感が得られたのは僕も年をとったからなのだろう。しかし、1960年代のアメリカにおける性の革命(セクシュアル・レヴォリューション)によって揺らぎが生じた若者たちの行動規範、それとまったく地続きであるかのような『ノルウェイの森』の世界観は、さすがにもう古すぎるのではないかとも思う。いまどきの10代の若者たちは恋愛至上主義ではなくて、一つひとつの人間関係を大切にし、あくまでそのなかの一部として恋愛関係を位置づけている感じだし、性的に淡泊で、暴力だって皆無に近い。つい40年前からすると羊のようにおとなしい。この流れはこれからも続くだろうし、そういうこれからの世代の若者たちがセックスをキーとするこの物語をどうとらえるのか気になるところだ。