平野啓一郎の講演会「自己の多様性を生きる」感想

昨日2月17日(土)に都城市総合文化ホール(MJホール)で開催された平野啓一郎氏の講演会に参加してきた。この年末年始にかけて『マチネの終わりに』を読んでこの作家にはまり、いたく感銘を受けていたから行かない手はないと思ったのだった。本日2月18日(日)は都城教育の日というものに指定されており、その一環として芥川賞作家である平野氏が誘致されたということらしい。都城市はいちおう宮崎市についで宮崎第二の都市とされているものの、正直、どの層の人たちがどのくらいこの作家を読んでいて、当日どのくらいの人たちが実際に集まるのかはまったく予想ができなかった。蓋を開けてみたら中ホールがほぼ埋まり、その大半が中高年の人たちで占められることとなった。全日本小学生バンドフェスティバルで銀賞に輝いたという都城西小学校吹奏楽部の素敵な演奏から始まり、小学生の読書感想文コンクールの表彰式があり、そして目当てにしていた氏の講演がはじまった。

XやYouTube等で積極的に情報発信しておられるが、じっさいにステージ上に現れた平野氏その人は作品の印象と同様に落ち着き払っていて、堂々たる様子だった。氏は「自己の多様性を生きる」という演題でおよそ90分間のあいだメモを見ることも言いよどむこともなく、ノンストップでしゃべり続けた。当日は晴天だったのだが、講演というものは雨だと行く気がしなくなり、好天だとこんないい天気の日にじっと話を聞くのも何だかなあ、ということで曇りくらいがいちばん参加者が集まるという話、以前も都城の泉ヶ丘高校というところに講演で呼ばれたのだが、その会場に向かう途中で遭遇したトラブルの話など、くすっと笑えるユーモアで場を和ませてから本題に入っていくところはさすが実力派の作家なだけあってお見事。その後もユーモアを交えながら自己の半生について語り、そこから「分人」の話につなげていくのだが、そのスマートな話しぶりには失礼ながら、この人は講演の仕事だけでも十分うまくやっていけるのではないかというくらい巧みな印象を受けた。

話の中心はもちろん「分人」の考え方についてで、これ自体については僕も『私とは何か「個人」から「分人」へ』(講談社、2012年)をすでに読んでいたので特段これといって得るものはなかった。「ブンジン? 文人の間違いではないのかね」という方も、まあけっこうためになる考え方が書かれているので読んで損はしないと思う。ただ、僕自身はというと、思想書や自己啓発本の類にはぜんぜん興味がもてず、あくまで「分人」の考え方が平野氏の小説にどう描かれているかということが気になるのみである(「分人」というのは思想と呼べるほど体系化されたものではなく、むしろ素朴な「考え方」に近いと思う)。

昨年、構想20年という『三島由紀夫論』(新潮社)が刊行されたので、僕としては平野氏がどのように文学を、とりわけ三島由紀夫の文学を語ってくれるのか、それがいちばん楽しみにしていたことだった。『マチネの終わりに』を読んだときに、これは三島由紀夫だ、どこをどう読んでも三島由紀夫だと感じた。そしてその印象はその後数冊の小説を読んでからもいっさい変わっていない。平野氏は三島が暗い内容を暗い文体ではなく、きらびやかで、人工的で、華麗なレトリックを用いて表現しているところに惹きつけられたということを話していたが、それによって悩みや孤独といったものに価値を見出せる気がするというのは、僕もまったく共感するところだ。

ただ、僕自身は『金閣寺』を中学二年のときに読んで、「これこそが文学なのだ」という感じを受けつつも、その中身はまったく理解することができなかったという経験を有している。それから時間をかけて三島は『沈める滝』とか『音楽』といったマイナーノヴェルも含めていろいろ読み漁ったけれど、大理石の建造物を思わせる堅固かつ優美な文章を味わい、そしてそれによって浮かび上がってくる世界の片鱗をおぼろげに感じ取ることくらいしかできていない。先日、平野氏もまた中二のときに『金閣寺』を読んで衝撃を受けたという記事をネット上でみつけた。記事を読んでいくにつれて、これが僕みたいな凡人と圧倒的な才人の差なのだな、というある種の気落ちと畏敬の念とが綯い交ぜになった自分でもよくわからない気持ちになった。

しかし、である。今回、平野氏が、三島を何冊か読んでいくうちに少しずつ全体像が見えてきて(例として挙げられていたのは『仮面の告白』と『潮騒』)、そして再び『金閣寺』を読み返したときにようやくわかったような気がしたということを続けて語るのを聞いて、ああ、そういうものなんだなと感慨深いものを抱いた。どう考えても僕は平野氏のように文学を深く理解できないのだけど、それでも文学というものは誰に対しても平等に開かれていて、それを通して自分なりに何かを感じ取り、考えることができればそれでいいのではないかという気持ちになった。そのことは、「作品というものは真空の中にぽつんとあるわけではなく、森の中の一輪の花」みたいに全体を俯瞰していって見えてくるものだ、といういかにも小説家らしい比喩を用いて語られた。

小学生やその保護者、都城市教育委員会の方々も参加している講演ということで、平野氏自身の現実とのかかわりから、自分とは何か、個性とは何か、個人とは何か、そして最後に分人とは、と話が展開していき、決して文学の話がその中心だったわけではない(じっさい、教育委員会の方々がよくうなずいていたのは文学ではなくて「分人」による一点投資のリスクを回避するといった実際的・教育的な部分に対してだった)。講演会の題目を考えればそれは当然であって、というか「自己の多様性を生きる」という講演会に文学を期待するやつのほうがおかしい。でも、僕はやっぱり平野啓一郎の小説を読んでいるときの自分、つまりは分人に心地よさを覚えてしまうのだから、こればっかりは仕方ない。