平野啓一郎『マチネの終わりに』(文春文庫、2019)

2024年2月7日

この年末年始に今さらながら平野啓一郎の『マチネの終わりに』を読んでみた。物語らしい物語があまり書かれなくなってきているこの時代に、小手先のテクニックではなくあくまでも物語の面白さで勝負する潔いタイプの作品で、読んでいてかなり引き込まれた。入念な下調べと取材がなされ、そのうえで三島由紀夫を完璧に模した華麗な文体でつづられたこの作品は、映画や漫画になっていることからもわかるように、上質なエンタメ小説でもある。読者の感情を揺さぶる力を持ちながら、全体的な印象はとにかく理知的。これが僕にとっての初ヒラノなのだが、細部に至るまで一分の隙もなく緻密に計算されつくしているのに、エンタメでもあるというところがいかにも秀才だなあという印象。この作家は他の作品も続けて読まなくてはならないと感じた。僕は宮崎で生活しているが、『ある男』なんかは西都を舞台にしているらしいし。

天才クラシック・ギタリストの蒔野聡史と国際ジャーナリストの小峰洋子。国際社会を舞台にしたこの二人の恋愛劇は、テーマとしては古典的な悲恋ものでありながら、悠揚たるスケール感をもって現代社会とそこに生きる人間存在の姿を思索的かつ真摯に描き出そうとするところに作者の気概が見て取れる。平野氏を読むと途端にこういう文章を書きたくなってしまう(笑)。やっていることは三島由紀夫の文体で現代の恋愛小説を書くということなのだけど、それをここまで徹底的にやられると、そりゃまあベストセラーになりますわな。

冗談ではなく、この人は本当に三島由紀夫の生まれ変わりではないのか?という気がする。もし三島が1975年生まれの小説家であるならば間違いなくこのような作品を書いただろう。この時代に小説家なり文芸批評家なりを志す人は村上春樹を避けて通ることはできない。彼は一個の世界的現象なのだから。しかし、それとは別の次元で、平野氏はその存在そのものが同時代の日本人作家にとってはまず間違いなく大きなプレッシャーであるだろうし、そういう存在こそが日本の文壇を引き締め、まだまだいい作品が書かれていく土壌を担保するのではないか。

この小説はもちろん物語の筋じたいが面白いし、個人的には三谷早苗のキャラクターが気に入った。物語中盤で蒔野へのみずからの思いを優先して彼と洋子の仲を引き裂き、さらに彼と結婚したあと、今度は自分たちの幸福を守るために彼のコンサートに来ないよう洋子に交渉するところなど、人として最低すぎる。思うに、僕みたいな凡人は蒔野と洋子のような文字どおり住む世界が違う人たちに心から共感することは難しいわけで、平野氏はその点をカバーするために早苗という「普通の人」を配置したのではなかろうか(その意味では蒔野の復帰に一役買う武知も似たような立ち位置だが、べつに彼は殺さなくてよかった気がする)。天才の行く末を決定的に変えてしまうのは普通の人の人間的弱さにもとづく行為であるというところにはリアリティが感じられる。そして蒔野の人生の「名脇役」になりたいという思いで彼と洋子を引き離した早苗は、そのこと自体ではなく、自らが望んだその役割が彼の存在と釣り合わないという理由で苦悩する。

「早苗の心の中には、正直なところ、洋子にすまないという気持ちはあまりなかった。蒔野の彼女への思いをふいにしてしまったことへの罪の意識も薄かった。しかし、蒔野から寄せられている全幅の信頼に、自分が決して値しない人間であるという自覚は、大きな苦しみとなった。」(P346)

三島由紀夫も女性の心理描写にすぐれていたが、平野氏もなかなかのものである。ここだけではわかりづらいが、洋子をはじめ作中にちりばめられた描写の数々をみていると、女性でなければ女性を描けないというのは幻想なのではないかという気がしてくる。上記引用のあとに続く「彼は今、確かに三谷早苗を愛している!」の部分なんかはいかにも三島っぽい文章だし、作者の分人主義の思想を端的に表してもいる。本当に、どこまでも計算されている。

作品を引き立てる装飾も凝っていて、「人間の疲労」(p47)、「恋の効能」(p86)、蒔野と洋子の美をめぐる対話(p123)など、これまた三島から学んだのであろうアフォリズム(箴言)の効果的な使用も平野文学の特徴である。さて、これから他作品を読んでいき、僕の前に平野文学はどのように開けてくるだろうか?