村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年)その1

2024年2月7日

『街とその不確かな壁』について:その1

本当はずっと前に読み終えていたのだが、書くのが延び延びになってしまった。2017年の『騎士団長殺し』以来となる村上春樹の新作書きおろし長篇『街とその不確かな壁』を読んで感じたこと・考えたことを、自分の備忘録を兼ねて記しておきたい。

村上春樹はラジオDJなんかやっていないでここはひとつ本領を発揮して長篇を書いてほしい、僕が求めているのは長篇作家たる村上春樹なのだ、ということをぼやいていたら、突然出たのがこの本である。正直いってこれには感激した。『一人称単数』(2020)が新境地を切り拓きつつも、出来栄えとしてはあまりに小粒だったので、ひょっとしたらもう村上の新作長篇は読めないのではないかという一抹の不安を覚えていたからだ。僕がぼやいている頃にはすでに作品は完成し、世に出る寸前だったということになる。疑ってごめんよ、春樹。

読んだ感想としては、まさに至福の読書体験だった。これはもう今年読んだなかで最高の小説といっていいだろうし、何ならこの数年で読んだ本の中でもベスト5に入るくらいの素晴らしい作品だ。あとがきで解説がなされているように、この作品は1980年に『文學界』に掲載された幻の作品「街と、その不確かな壁」が核となっている。「街」は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985)の「世界の終り」の素材として一度使用されているが、今回は再びオリジナルの「街」を素材に、『世界の終り』で導入された二つの物語を交互に語る手法を用いる形で創作された。

つまり、素材にも手法にも何ら新しいところは見られないのだが、今作は現実世界と高い壁に囲まれた街の世界観が一致していることで非常に心地いい調和が生み出されている。これは何というか、スティングが『シンフォニシティ』(Symphinicities, 2010)で自らの楽曲をロイヤル・フィルハーモニック・オーケストラとともに再録音したのに似ている気がする。作中で流れているのはいつものようにジャズだけれど、それはコーヒーショップという空間の中でだけだし、細かい描写の積み重ねによって立ち上がってくる作品のイメージそのものはクラシック音楽の方が似合うように思う。

現実と非現実が入り混じる複雑な物語でありながら、作品全体のトーンはどこまでも牧歌的であり、せわしい日常をいっときの間忘れさせてくれる。特に自然の細部の描写が美しい。僕は九州人なのであくまで想像するしかないのだが、少年時代を過ごした兵庫県芦屋市の風景が村上の原風景となっていて、それが今作の描写では特に活かされているような気がする。独特の文体や作品の世界観ばかりが注目されるが、僕は村上春樹の簡潔でありながら鮮やかなイメージを想起する自然描写がことのほか美しいと思う。

また今作は小川洋子の世界観とそのまま地続きになっている印象を受けた。「君」が「僕」のために出してくれる薬草茶や林檎菓子、それにコーヒーショップの女性が作るブルーベリー・マフィンなど、いかにも小川氏が好みそうな小道具であふれている。そもそも小川洋子は初期の村上作品に強い影響を受けていて、今作では逆に村上が小川に接近したのだといえるかもしれない。

さて、肝心の物語はどうなのかというと、それはまず7月に公開されたジブリ映画『君たちはどう生きるか』に言及するところから始めよう。僕は『街』を読んだあとに『君たちは』を観たのだが、両者のあまりの類似ぶりは特筆に値すると思う。現実世界と異世界が互いに影響を及ぼしあう基本構造はもちろんのこと、西洋的な世界観と日本的・東洋的モチーフを結びつける感性も共通している。そして、少年と少女の心の交流が重要な要素であるところも。

ジャンルこそ違うけれど、村上春樹も宮崎駿も(ついでにいえば庵野秀明や新海誠も)、平凡な人間であれば自分の胸のうちにそっとしまったままにしておく個人的な想いを極限まで押し広げて、一つの世界を構築してしまうという種類の才能に恵まれている。彼らの感性は多くのフォロワーを生み、いわゆる2000年代前半のセカイ系ブームへとつながっていった。「セカチュー」(『世界の中心で、愛をさけぶ』)が流行っていたのは僕もよく記憶している(当時、こんな青臭い、子どもだましの物語に世間は涙したものだった)。しかし、このセカイ系ブームが単発的なヒット作を生むばかりで、なかなか本物の作家を輩出しなかったことを考えると、村上春樹や宮崎駿がさすがに肥大した自意識と過剰なナルシシズムの以外の何か、多くの人々の無意識に訴えかける何かを固有の文法として持ち合わせていることがわかる。作中でいったんその固有の文法の癖が気になりだすと僕は一気に醒めてしまうこともあるのだが(あ、またこのパターンですか……という幻滅)、『君たちは』にしても『街』にしても、これまでの世界観を維持しつつ、同時にこれまでにない描写や展開が待ち受けていて、そこに老齢になっても自己を更新していこうとする気概が見えるところがよかった。

<この世界とは何なのかという問い>

過去の村上作品の例に漏れず、ものすごく大ざっぱに言えば、この作品の一番大きな主題は「この世界とは何なのか」というものになると思う。エピグラフにはコールリッジの幻想詩「クーブラ・カーン」(チンギス・ハンの孫であり、元の初代皇帝フビライ・ハンのこと。長母音で表記することが多いのでそれに従う)の一節が引かれているが、これはアヘンの陶酔によって書かれた、理想郷についての作品である。どういうわけか村上は副題を省略しているが、正式には「クーブラ・カーンあるいは夢で見た幻想―断章」(“Kubla Kahn: Or, a Vision in a Dream—A Fragment”)といい、副題は『パーチャス廻国記』を読みながら眠りこけてしまった作者が、目を覚ますと数百行におよぶ詩が意識に浮かんでおり、それを来訪者の邪魔を受けながらも、記憶にもとづいて書き記したという経緯を表している。ちなみに、エピグラフの前後を確認してみると、以下のようになる。

ザナドゥにクーブラ・カーンは
壮麗な歓楽宮の造営を命じた。
そこから聖なる河アルフが、いくつもの
人間には計り知れぬ洞窟をくぐって
 日の当たらぬ海まで流れていた。
そのために五マイル四方の肥沃な土地に
城壁や物見櫓が帯のようにめぐらされた。

(サミュエル・テイラー・コウルリッジ『対訳 コウルリッジ詩集―イギリス詩人選(7)』上島建吉編訳、岩波書店、2002年。p197。)

作中でコウルリッジは想像力を駆使してこの世ならぬ理想郷を現出させていくが、そこは張りめぐらされた「城壁や物見櫓」によって「こちら」と「あちら」に仕切られている。村上の引用の意図は明らかだろう。この幻想詩は作品のモチーフに対する言及であるとともに、現実と非現実が入り混じる物語の構造を暗示する役目も果たしている。

17歳の「ぼく」は16歳の「きみ」とひと夏をかけて想像力によって高い壁に囲まれた街を作り上げる(「クーブラ・カーン」でいうところの「ザナドゥ」)。しかし、「きみ」は理由もわからないまま「ぼく」の前から消え去ってしまい、「ぼく」は大きな喪失感を抱えることになる。一気に時間が経過し、45歳になった「私」は勤めていた書籍取次の会社を辞して、ふたたび夢に現れた街のイメージに突き動かされるようにして、東北のある町の図書館長になる。それから、現実世界と街が奇妙に交錯しはじめる……要約するとこんな話だ。

現実と非現実が入り混じる状況を説明するための道具として、作中ではガルシア=マルケスの『コレラの時代の愛』が引用され、さらには「マジック・リアリズム」(魔術的リアリズムともいう)への言及までなされる(p575)。読者の理解をスムーズにする親切な仕掛けであるが、僕の記憶だとこんな解説めいたものは過去の村上作品には見られなかったはずだ。ずいぶんと親切な仕掛けである。

ガルシア=マルケスの作品はどれもマジック・リアリズムの手法で書かれているので、それを言いたいだけであれば別に『百年の孤独』を引用してもいい。しかし僕たちがリアルタイムでどんな時代を生きているのかを考えると、文字通りコレラの災厄に見舞われたコロンビアが舞台の『コレラの時代の愛』が選ばれなくてはならない必然性が生じる。

イエロー・サブマリンの少年(以下、少年と表記)は街を囲っている高い壁の存在理由を「疫病を防ぐため」と考えている(p447)。いかにも中世的な街の描写からすると、疫病という言葉からは14世紀なかばにヨーロッパ人口の3分の1を奪ったとされるペストの大流行が連想されもしよう。しかし、作中の街は正確には街ではなく一つの世界のことであり、作家が念頭においているのはコレラでもペストでもなく、世界規模で大流行し、いまだに終息をみない新型コロナウイルス感染症であることは言うまでもない。「私」から切り離された影が「いろんな感覚がだんだん消えていくみたいだ。食べ物にももう味がしないし」(p124)と述べていたり、仕切りと言えばいいところをわざわざ「パーティション」(p252)と表現していたりするのに出くわすと、僕たちは反射的にコロナウイルスのことを思い浮かべる、そういう時代に生きている。

とはいえ、「疫病」は僕たちが生きている現実の文脈においては、いつかは終息するはずのコロナウイルスを指している一方で、比喩的なレベルでは人間の魂を汚すさまざまな疫病のことを意味している。作中で私と少年が対話しているとおり、文字通りの疫病であれば、コレラであれペストであれコロナであれ、いつかはかならず終息する。ではなぜいつまでも壁が張り巡らされたままなのかというと、それは壁そのものが本来の目的を越えて、街にとって有害なもの一切を、少年の表現でいえば「終わらない疫病」(p449)を遮断する機能を担うようになったからだ。壁は誰も中に入れず、誰も外に出さない、堅牢かつ閉鎖的なシステムを構築するに至った。

「終わらない疫病」とは何なのか。「私」が頭を悩ませるのと同じように、それは読者一人ひとりが自分で考えるしかない。僕たち一人ひとりの魂にいつの間にか入り込んでいって、徐々に内部を損なっていき、いつしか取り返しのつかない結果をもたらす疫病。これを考えるために、<古い夢>と<夢読み>がそれぞれ何であり、どのような関係にあるかを確認してみよう。

「私」は街の図書館で夢読みとしての役割を果たしている。「私」の影の仮説によれば、古い夢とは、壁の外に追放された本体たちが残していった心の残響(のようなもの。街に害をなすさまざまな負の感情であり、「疫病のたね」となるもの)を専用の容器に閉じ込めたものである。そして夢読みである「私」は、本体たちの魂(心の残響)が街にとって脅威となるのを未然に防ぐために、それらを鎮めて解消する役割を担っている(pp.148-150)。

どんなに強固な壁を築いても、将来的に疫病になりうるものを完全に締め出すことはできない。だから人間であり、共感能力をそなえた「私」ただ一人が古い夢に寄り添い、暴走しないようになだめる役割を果たしているというわけだ。現実に即していえば、カウンセラーや精神保健福祉士のようなものかもしれない。そうすることによって「私」は追放されたものたちの魂を救済しているのである。しかし、忘れてならないのは、彼は次のような懸念を抱いているにもかかわらず、同時に街というシステムを維持する機能の一部になってしまっているということだ。

「街は現実に人の命を奪うことができるかもしれない。なぜならその街は既に我々【筆者注:「私」と「きみ」】の手を離れ、独自の成長を遂げてしまったからだ。いったん動き出したその力を制御したり変更したりすることは、もう私にはできない。誰にもできない。」(p126)

しかし、彼は夢読みをせざるを得ない。なぜなら街にとどまり続けることを願う彼には、それ以外にできることが存在しないから。そうやって個人の行動は体制を強化することにつながっていく。夢読みは自分の世界に引きこもって日々小説を書くという営為に身を捧げている村上の姿そのものなのだが、皮肉なことに、彼もまた自らの壁の内側から出られなくなっているのではないか(注1)。

ポスト・トゥルースの象徴たるトランプが政治の表舞台に登場してから、事実と虚構の境界線はいっそう揺らいでしまったように思える。僕たちが現実だと思って生きているこの世界は、ひょっとしたら非現実なのかもしれない。あるいは非現実に移行しつつあるのかもしれない。ときとしてそんな錯覚を覚えるくらい、世界は混迷の度を増しつつある。いつもながら村上春樹が息の長い物語で問題にしているのはまず、そのような世界のあり方なのではないかと思う。

「私」の影は、壁の外に追放された本体たちは自分たちの方が影であるという偽りの記憶をすり込まれていると考える(pp.147-148)。でも第62章で唐突に壁抜け(『ねじまき鳥クロニクル』そのまんま)を果たした現実世界の「私」は17歳の頃の姿で16歳の「きみ」と再会するが、そこでは二人とも影を失っており、かれら自身が本体から切り離された誰かの影であったことが示唆される。第62章は第1章の変奏であるが、「私」という個人にとってかけがえのない意味をもつはずの記憶ですら、じつは虚構かもしれないのだった(注3)。村上春樹の作品は、作品そのものが何かのメタファーになっていると言い切って差し支えないと思うが、特にこの『街』の物語はこの世界とは何なのかという問いを読者に投げかけているように思う。

(注1)本質的に徹底した個人主義者である村上は、阪神淡路大震災やオウム真理教による地下鉄サリン事件以後、作家としての社会的な責務に目覚め、コミットメントの立場を取るようになったが、それ以降再びもとの夢想的な状況に回帰しつつあるのではないか、ということ。そもそも『街』の創作動機は自らの記憶に存在する少女の幻影を断ち切るという、あくまで個人的な欲求からはじまっているが、これは『ノルウェイの森』ですでに終わったことのはずである。

(注2)produce「生産する」の語源はpro-(前へ)+duce(導く)である。「モノを生産する」ことは「前に導く」こと、すなわち「示してみせる」(show)ことであるという単純明快な比喩。(丸山俊一『マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学する』NHK出版、2018年。p14)

(注3)作品のいちおうの論理でいけば、「きみ」に会うことができるのは「ぼく」だけである。「私」は「君」に会うことはできても、「きみ」に会うことはできない。しかし、この区別はあくまで文字という視覚的な記号のうえでしか成立しないものであるし、そもそも作者本人も表記の揺れを見せている箇所が見受けられる。

現実世界:17歳の「ぼく」と16歳の「きみ」/ 街:夢読みとしての「僕」とお世話をしてくれる「君」

現実世界:(28年後):45歳の「私」(「きみ」は姿を消している)/ 街:「私」と「君」

(参考にしたサイト)

村上春樹による村上春樹のリマスターは成功したのか――『街とその不確かな壁 』評(福嶋亮大、https://realsound.jp/book/2023/04/post-1307772.html