加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』(岩波新書、2015)

2024年2月7日

2022年のノーベル文学賞はフランスの作家アニー・エルノーが受賞し、日本の村上春樹は今年も受賞を逃した。何ということもない毎年の恒例行事。マスコミやらハルキストやらが騒ぎ立てているだけで、村上本人がどう思っているのかはよくわからない。個人的にはフランツ・カフカ賞を取ったのだから十分じゃないの?と思うのだけれど。フィリップ・ロスにマーガレット・アトウッド、ミラン・クンデラと、錚々たる顔ぶれが受賞している文学賞だが、世間的にはまったく無名の賞だからよくないか。石牟礼道子が亡くなった今となっては有力な日本人候補といえば多和田葉子と村上くらいしかいないわけだが、果たして今後どうなるものだろうか。

ノーベル文学賞作家に対して僕が抱いているイメージはとにかく「わからない」「玄人向け」というものだ。2016年にボブ・ディランが受賞したときは諸方面からノーベル音楽賞と揶揄され(もちろんディランは好きだが、歌詞はあくまで音楽の一要素に過ぎないのだから、ミュージシャンに与えるのは違う気がする)、2017年にカズオ・イシグロが受賞したときは、えっ、イシグロが?こんなにポピュラリティ、リーダビリティがある作家が?とおどろき、ノーベル文学賞もずいぶん一般大衆寄りになったものだと感じた。より正確に言えば、2013年にアリス・マンロー、2014年にパトリック・モディアノが受賞したときもそういう傾向を感じたのだけれど、ノーベル文学賞にはある一定の周期で案外「わかる」人たちが受賞するという流れがあるような気がする。しかし、たとえその流れに乗ったとしても、村上春樹はあまりにも「売れる」し、あまりにも「わかる」(あるいは「わかった気にさせてくれる」)作家なので、どうにも受賞するイメージがわかないのである。イシグロの受賞というのは半分日本人枠を使っているようなものだし。

こういうふうに書いてくると誤解されそうだが、僕は村上春樹が大好きだ。村上のこととなると、あまりにも影響を受けすぎていて客観的な文章を書ける気がまったくしない。はじめてこの作家を読んだのは中学2年のときで、作品は『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』だった。当時小説というものの面白さに目覚めつつあった僕は、次は何を読もうかと国語の便覧をよく開いたものだった。そこに紹介されている本の中から面白そうなものを選んで手に取るという習慣をもっていたのだが、誰にでも見おぼえのある文豪たちのモノクロの顔写真とともに「羅生門」だの「舞姫」だの『こころ』だの、そういういかにも教科書的な作品がずらりと並ぶ中で、僕の目に飛び込んできた『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』というタイトルはあまりにも衝撃的だった。

こんなポップなタイトルの本も文学なのか!と。世界観の異なる二つの物語が交互に繰り返される構成も斬新に感じた。それから中学時代のうちに『ノルウェイの森』を読み、『ねじまき鳥クロニクル』を読み、いわゆる『鼠三部作』(『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』『羊をめぐる冒険』)を読み、『アフターダーク』、『海辺のカフカ』へと進んでいった。確かこんな順番だったと記憶している。もちろん理解はしていない。でも村上春樹の世界に浸っているととても心地よくて、それがなぜだかわからないうちに気がつくと次々に手にとって読んでいるのだった。

今では村上の小説はすべて読んでいる。わざわざ「小説」と書いているのは、僕は村上が書いたものなら何でも読むといったマニアではないからだ。正直言ってどうしようもない駄文も結構書いている人だと思う。でも小説だけは新刊が出るたびに単行本を買い、またこのパターンかあ、とぼやきつつも結局全部読んでしまい、随所に出て来るきらめくような表現にめくるめく喜びを感じ、最後には、「うん、やっぱり村上春樹はいい」で終わる。村上が後世まで残るとしたら、それはやはり小説だろうと思う。この人は何よりもまず小説家なのだ。じっさい村上自身、職業小説家であること、どれだけ物語作家としての自負を抱いているかということについて、うんざりするほどナルシシスティックな文章を書いていたりするが(『職業としての小説家』)、これだけ多義的で解釈の幅の広い物語世界を、村上節としか言いようのない独特の文体でもって創造し、維持し続けるという圧倒的な才能に、僕はある種のすがすがしさ、感動すらおぼえる。

村上春樹は「わかる」作家である。しかし、あくまでそれは表層的な部分の理解であって、本当に作品を理解しようとすると「むずかしい」。僕はこのことがノーベル文学賞を受賞できない大きな要因のひとつではないかと思っている。読者は世界中にたくさんいる、しかし僕自身も含めていったいどれだけの人が本当に村上を理解しているのか? 作品の大半をまだ頭が半分霞がかっていた中学時代に読んでしまったせいで、僕は村上作品のむずかしさがわからないまま成長し、それからだんだんといろんな作家を読むようになっていったが、時を経て改めて作品を再読してみるとじつにさまざまな発見がある。村上作品は読みやすいわりにきちんと読むためにはかなりの文化的教養を要求してくるから、見え方が変わったというのは、僕もそれなりに教養を身につけ、それに年をとったということなのだろう。中学生の頃は語り手の「僕」が三十代半ばであるというのがどういう立ち位置を表しているのかよく理解できなかったが、いざ自分がその年代に近づいてみると物語内の出来事の一つひとつがよりフィジカルなものとして感じられる。

今回読んだ『村上春樹は、むずかしい』だが、コンパクトな内容のうちに、特に村上春樹の作風の変化について手際よくまとめてあるところが勉強になった。『風の歌を聴け』で文字どおり風のごとく颯爽とデビューを果たした村上春樹は、「肯定的なものを肯定する」、それは逆にいえば「否定的なものを否定する」作家として出発した。それ以前の日本文学にまとわりついて離れない、湿り気を帯びた否定性ではなく、カート・ヴォネガットやリチャード・ブローティガンをはじめとするアメリカ小説の文体に学んだ軽快なユーモアに満ちた作風であり、そういうところを丸谷才一は評価したわけだ。じっさい、村上春樹の文学的勉強量というのは膨大なものであり、並みの才能の人間にはこれだけのことを学び取って自分の文体に昇華させることはできない。ちなみに、ネット上には村上がライトノベルの源流であるかのような俗説があったりするが、仮に部分的にそうであるにしても、それは冴えない主人公がなぜか女性にもててすぐにセックスに及んで、というようなやはり表層的な世界観に影響を受けているだけで、村上最大の武器である文体とは何の関係もない。

「否定的なものを否定する」というと、それはすなわちそれまでの日本文学を否定することのように聞こえるが、村上は日本文学における突然変異種などではなく、日本がポストモダン時代に突入していく時代に生まれるべくして生まれた作家である。彼が本当にスタイリッシュなだけの作家であったとしたら、「中国行きのスロウ・ボート」や「ニューヨーク炭鉱の悲劇」といった時代の要請に逆行するような作品は書かなかったはずだ。戦時中のアジアとの関係や学生運動の敗北など高度資本主義化に伴って日本人がしだいに忘却へと追いやっていったもの、それは「失われてゆくもの」として作家自身の個人的な記憶とともに作中人物たちによって語られ、独特の抒情を漂わせることになる。

アメリカ滞在を経たのちに『若い読者のための短編小説案内』を出版し、芥川龍之介の英語版アンソロジーや夏目漱石の『三四郎』の英訳(ともに村上春樹の英訳者であるジェイ・ルービンに手になる)に序文を寄せていたりすることからもわかるように、村上は世界的に有名になっていくにしたがって日本文学への関心をわかりやすくアピールしてきたが、それはキャリアの最初期からすでに一貫して作中に描かれてきたことだ。僕は村上春樹と夏目漱石はよく似た作家であると感じているのだが、おそらく村上自身もそのことを意識しているのだろう。ちなみに、加藤氏も両者の類似を指摘している。個人的な関心事を掘り下げていくと人類の無意識にぶつかるという方法論的な意味で共通しているということだが、村上と漱石を読んでいると確かにこれは同じタイプの脳からつむぎ出されている物語だなという印象を受ける。

『ノルウェイの森』が予想を超えた大ベストセラーになり、日本に居場所を失った村上は、徹底的に個人になりたくてアメリカに移住する。しかし、当然ながらアメリカは個人主義が土台になっているので、そこで過ごすうちに作家としての責任とか、社会意識といったものに関心を持つようになる。作家の言葉でいうデタッチメントからコミットメントである。村上はその生き方から判断して個人主義の権化としか言いようがないのだが、そんな彼が『アンダーグラウンド』を出して世を驚かせた背景にはそういう心境の変化があったということだ。ノンフィクションに携わる人たちは自分たちの分野への侵略と受け取ったそうだが、いずれにせよ、取材のため市井の人々との交流を経験したことで『神の子どもたちはみな踊る』や『東京奇譚集』に顕著なように、登場人物の造形の幅が広がったという指摘は非常に興味深かった。

『ねじまき鳥クロニクル』における歴史記述や『1Q84』における「さきがけ」(オウム真理教がモデルの新興宗教)に象徴されるように、コミットメント以降の大長篇はつねに大きな物語と小さな物語が交錯するようにして展開していく。東日本大震災や原発事故については『騎士団長殺し』の結末で言及されたが、とって付けたようで違和感があった。2022年11月現在、世界は依然としてコロナウイルスがもたらす恐怖と不安のただなかにあり、ロシアはウクライナへの侵略を継続中である。国内においては旧統一教会のことでごたごたが続いている。こういった時代が果たして村上春樹の作品にどのような影響を及ぼすのか。

加藤氏は、大江健三郎もJ・M・クッツェーも満身創痍ではないか、村上には傷つくことを恐れずもっと信奉者の輪の外へ出て行ってもらいたいということをあとがきで述べている。コロナ禍になってそれは村上RADIOという形で実現(?)したのだが、いやいやそういうことじゃないんだよ、春樹……。たとえ本人がジャズバー経営時代と同じ喜びをそこに見出していたとしても、やっぱり小説を書いてほしい。僕は村上を通じて音楽についてじつに多くのことを学んだのだけれど、求めているのはやはりラジオDJではなく物語作家としての村上春樹である。『一人称単数』は一言でいえば村上春樹も老人になったんだなあという感じで、単なる過去作品の焼き直しに過ぎず、『猫を棄てる 父親について語るとき』も本人にとっては長年心にわだかまってきたものを形にした大切な作品なのだろうけど、ファン以外誰も読まないだろう。村上春樹ライブラリーの整備についてはまだ早い終活としか思えない。コロナ禍になってもブルース・スプリングスティーンやニール・ヤングは衰えを感じさせないどころか、相変わらず素晴らしい作品を出し続けている。村上にもまだまだ本領である長篇を書く力が残っていて、まだ見ぬ新作はもうすぐ読者に届けられる、そう信じたい。