稲田豊史『映画を早送りで観る人たち ファスト映画・ネタバレ―コンテンツ消費の現在形』(光文社新書、2022)

2024年2月7日

あまり流行っている本には手を出したくないけれど、この本は自分自身が日々感じている問題とも関わりがあるから読んでみた。「現代ビジネス」に連載された9本の記事がもとになっているということで、章によっては互いに重なり合う記述があったり、やや冗長なところがあったりはする。しかし「映画を早送りで観る人たち」の出現という奇怪な現象についてここまで深く掘り下げた本はおそらく日本ではこれが初めてだろうし、ほんの数年のうちに時代遅れな記述が目立つようになるとしても、ここで指摘されている現象じたいは消えてしまうどころか、今後何十年もその傾向を持続させ、加速していくのではないかと思う。

僕が生まれたのは1992年だが(バブルがはじけて数年後、祭りのあとのような空気が日本社会を覆い、地下鉄サリン事件や阪神・淡路大震災を数年後に控え、失われた30年のちょうど始まりにあたる時期だ)、物心がついた頃にはすでに身近にパソコンがあったし、インターネットも当然存在していた。小学校時代には、わからないことがあればインターネットで調べるという手段がすでに定着していた。キーボード入力の練習をしたり、Wordで文書作成をしたり、Excelで表計算をするといったスキルはみんな学校教育のなかで学んだ。ちなみに、いまの小学生はプログラミングが必修化されたということで、ついにそこまで来たかという感を抱いている。いまはカズオ・イシグロが『クララとお日さま』を書き、イアン・マキューアンが『恋するアダム』を書く時代だ。

それからガラケーはスマートフォンに取って代わり、LINEやTwitter、InstagramといったSNSを誰もが利用する時代がやってきた。僕は小学生の頃にロックマンエグゼ・シリーズに夢中になった世代だが、作中に描かれている誰もが一台ずつ個人の情報端末を所有する近未来は、すでに現実のものとなっている。AIの進歩を考えれば、固有の性格や意志をそなえたネットナビが誕生するのも時間の問題かもしれない。期せずして、コロナ禍は数十年はかかると思われていた日本社会のデジタル化をわずか数年のうちに成し遂げることとなった。授業は遠隔で、仕事はリモートで、講演はウェブで(ウェビナー)という環境を考えれば、IoT(Internet of Things:モノのインターネット)研究も盛んに行われていることだし、電子機器にプラグインできる日は冗談ではなく本当にやってくるのではないか。

映画を早送りで観るということについて、この本を開く前に僕が率直に思ったのは、それは作品に対する冒涜だ、そんなにしてまで観るくらいなら最初から観なくていいのではないか、ということだった。著者は1974年生まれだそうだが、1992年生まれの僕もまったく同じ感覚を共有している。しかし、話はそう単純ではなく、若者たちはその作品をとりあえずは観たという事実をほしがっているのだという。そうしなければ仲間うちでのコミュニケーションにおいて、あるいは顔も知らない人たちとのつながりの維持において、相手に嫌な思いをさせたり、変にマウントをとられたりといろいろな支障をきたしてしまいかねないのだが、若者たちはそのことを非常に気にしている。

基本的に人と関わるのが面倒くさいなあと思ってしまう僕からすると、現実の人間関係の維持だけでも厄介なのに、SNS上のヴァーチャルな世界でも常時つながることを強制されているというのは息苦しくて仕方がない。何だか他人事のように書いているが、これは僕自身にもあてはまることであり、感覚は理解できる。もし子ども時代にSNSがあって、クラスや部活、家族など場面に応じていろんなグループがあり、つねに良好な人間関係の維持を求められるのだとしたら、ぞっとする。悪夢である。でも、これは今の若者たちが子どもの頃から生きている現実なのだ。何か一つ大きな失敗をすればそれがネットを通じて不特定多数にまですぐに広がったり、炎上したり、デジタル・タトゥーとして残ったりする。だから目立つことはしたくないし、できるだけ失敗しないように行動する感性が生まれる。アーサー・ミラーは戯曲『るつぼ』の中でセイレムの魔女裁判と1950年代のマッカーシズムを重ね合わせたが、一瞬にして誰もが誰かの告発者になりうる現代のほうがよりディストピアに近づいているような気がする。

今の若者たちは映画に深く共感するとかそこから何かを学ぼうといったことは求めておらず、あくまでもそれを消費だけが目的の「コンテンツ」ととらえる傾向があるが、それは映画だけに限らないそうである。たとえば、若者の好き嫌いはドラマの構成の仕方や、昨今のライトノベルやスマホゲームの隆盛にも深く関わっている。説明的すぎてとても違和感のある台詞(著者と同じく僕も『鬼滅の刃』のアニメを観ていて非常に気になった)、現実ではうだつの上がらない主人公が異世界に転生したら途端に強者になる(ひと昔前の主人公が失敗したり傷ついたりしながら少しずつ成長していくのとは真逆の精神性)、ギャンブルと大差ないガチャという課金システム(僕が子どもの頃、そもそもゲームは専用のゲーム機で「楽しむ」ものだった)。本に書いてあることをこういうふうにかいつまんでみると今の若者はここまでひどいのか、とつい上から目線になってしまうが、考えてみればこういった要素を好む感性を育て上げたのはまぎれもなく社会の側、大人の側である。

今の若者たちは、みんな平等であるという価値観と、苦手なことに向き合うよりかは得意なことをさらに伸ばそうというような個性重視の考え方を広く有しているが、それはこの本で言うところの「快適主義」の土台となっている。この快適主義のもとでは、観る人を選ぶような難解な作品は理解できないと不快な気持ちになるだけだから受け入れられないし、ただでさえ日常生活はストレスでいっぱいなのだから、フィクションの中であっても主人公が強敵を打ち破るために泥臭い努力をするようなものには興味がそそられないし、ゲームをするのは純粋にストレス解消のためだったり、友だちとつながっているのが楽しいからだったりする。これでは作り手が本当に作りたいものを作れないのも無理はないという気がする。人類史上もっともデジタル機器の扱いに長けていて、SNSでの絶大な発信力を有するZ世代の若者たちを無視していては、今やどんなコンテンツ(個人的に嫌な呼び方だが)もヒットに結びつかないようになっている。だから作り手たちは若者ウケを意識した画一的なものばかり量産する。

92年生まれの僕自身、景気がよかった頃を知らないし、今の若者たちはアルバイトに余念がないが、それはたいてい遊ぶ金ほしさではなく学費や生活費を稼ぐためであるということも知っている。彼らは所有することよりも共有することを重視する世代である。僕なんかは21世紀も四半世紀が経とうとしている今でさえせっせとCDを買うという恥ずかしい行為を続けているが、若者たちは気になる曲はYouTubeやTikTokでチェックし、知らない音楽はSpotifyで開拓する。わざわざ高い金と貴重な時間を使うくらいなら、Netflixで話題作を適当に倍速で飛ばしながら観る。作品の理解はほどほどに、自分が楽しければそれでよく、友だちとその作品に関するトークで盛り上がれたらなおよい。

「いまどきの若者は…」というのは人類が誕生してから今に至るまで世界中で延々と繰り返されてきた言い回しである。いつだって大人は自分たちが育った価値観に固執して若者の言動にいちいち目くじらを立てるものなのだ。僕は読書に精神的な喜びを求めているから決してライトノベルは読まないし、ゲームは子どもがするものであって大人になっても手放せないのは幼稚な証拠だと思っている。映画を倍速で観るなど言語道断である。もちろん、それが時代遅れな考えであることはわかっている。でもそれはあくまで僕という個人にいやおうなく染み付いた考えであって、今さら変えられるものでもないし変える必要もない。でも、思考を停止させて盲目的に若者を批判することだけはしたくないと思う。彼らには彼らの生き方があり、言い分がある。わからないところがあっても、よく話してみればわかりあえることもたくさんある。ストリーミング再生が主流だというのに、アナログ・レコードが流行ったり一周回って80年代のシティ・ポップが再評価されるような時代でもある。その点、若者たちの感性に僕としてはとても共感を覚えるのである。