押見修造『ぼくは麻理のなか』メモ

2024年2月7日

*作品の根幹にあたる仕掛けについても言及しているので、これから作品を読んでみたい方は以下、ご注意ください。

かつて『I”s』という恋愛漫画があった。1997年~2000年にかけて週刊少年ジャンプに連載され、現在までに単行本を1000万部以上売ったという伝説の漫画だ。いまの40代前半くらいの世代のなかには、桂正和の描くヒロイン葦月伊織が青春の1ページに刻まれているという人も少なくないのではないかと思う。世代ではないけれど僕もこの作品は読んでいて、なんというか、男子高校生の視点からあこがれの女の子を描写していくその手法は感情移入の力がハンパではなく、もしこれを十代の頃に読んでいたらそれなりに精神的影響を受けたかもなと感じた。伊織ちゃん、かわいい。ただし、これはどこまでも男子のための漫画だ。ところどころ出てくる作者のフェティシズムとしか思えない描写なんかは、はっきりいって男の自分でも気持ち悪い。

それと同じように、いやそれよりもまちがいなく読む人をかなり選ぶであろう漫画、押見修造の『ぼくは麻理のなか』(双葉社、全9巻【2023年12月現在品切れ中】)を読んでみた。こちらは恋愛ではなくサイコホラー系の作品であるが、個人的な趣味としてはこちらのほうが好み。僕はボーカル曲を聞くときはメロディの良さよりも声質の好き嫌いや雰囲気で自分のなかでの評価が決まってくることが多いのだけれど、漫画の場合はとにかく絵のタッチで決まる。画力も大事な要素ではあるけれど、大事なのは絵に魅力があるかどうかだ。そこがうまくはまらなければ、どんなにストーリーがよくてもいまいち印象に残らない。押見さんの作品は初めて読んだのだが、醜悪な描写、グロテスクな描写にやや偏愛があるようで、そこがすこし気になるけれど、それも含めて個性的かつ魅力あふれる絵が描ける作家だと思った。麻理、かわいい(結局それかい(笑))。

麻理がひたすらかわいいというのは陳腐すぎる感想だが、誰がどう見ても麻理が美人に「見える」こと、これは作品の根幹にかかわってくるきわめて重要な点である。作品序盤は小森功という引きこもりの大学生の意識がコンビニでみかけるあこがれの女子高生麻理に乗り移るという、なんだか『君の名は。』みたいな展開である。面白いのは、小森が麻理になっているのであれば麻理は小森になっていると考えるのがこの手の入れ替わりものの常道パターンだが、じっさいのところ小森功は小森功として相変わらずの自堕落な生活を続けているというところ。小森功が同時にふたり存在する? では麻理の意識はどこへ行ったのか? そこに柿口依という地味なメガネ女子がからんできて、いっしょに消えた麻理を探すことになる。男女入れ替わりに探偵もの・推理ものの枠組みが導入されていて、これだけでまずつかみは十分だ。麻理探しと並行して、小森は彼にとっての女神さまである麻理を汚さないという使命を勝手に自らに課しているが(具体的には性的な部分を見ないようにすること。目隠しをして入浴はさすがに笑える)、それは生理という自然現象によってあっけなく崩される。そこまで描写しなくても……という感じだが、それがこの作家のこだわりなのだろう。

個人的に、生理や排泄よりもリアルだと感じるのは、いかにもありそうな女子グループ内でのやり取りの描写である。麻理は誰からも二度見されるレベルの美少女なので、当然華やかな女子グループに、学内ヒエラルキーの上位集団に属している。そんな彼女を小森とおなじ羨望のまなざしで見つめているのが依。彼女はどんなクラスにも一人はいそうな、地味で目立たないタイプの女子として造形されている。小森はよく理由も呑み込めないまま強引に迫ってくる依の助けを得て麻理の生活・人間関係を維持していこうとするが、そこは中身が引きこもりのヘタレなので絵にかいたように見事に失敗してしまう。彼氏・彼女をめぐるいざこざで女子グループからハブられるというのはいかにもありそう(女子同士のやり取りってあんなに恐ろしいものなのか?)。

それから話は「ぼく」は「ぼく」と向き合う(「ぼく」は「きみ」であり、「きみ」は「ぼく」だ。村上春樹ですか?)とかいうややこしい展開になるが、このあたりは麻理・小森・依がそれぞれの生い立ちや現実と向き合うという主題との関連性がやや薄いように思う。自暴自棄になって麻理の体で鏡を見ながら自慰行為にふけり(注)、その後麻理に欲情し自慰行為におよぶ小森に向かって「僕の人生全部オナニーだ」(第5巻、p98)というセリフをぶつけるのは、小森が最低の人間であると強く印象づけはする。でも、自分のことしか考えないのがすなわち自慰行為であるというのはちょっと違うのでは? 逆に、他者と性交渉することが外界に目を向けること、他者を思うことであるかというと、かならずしもそうではないわけで。

(注)表面的には麻理が自慰行為にふけっているだけだが、この時点での読者の認識は麻理の中身は小森ということになっているので、麻理と小森(影のように描かれた男)の疑似的なセックスの描写として受け取れる(第4巻、pp. 82-117)。しかしこの場面はよく考えたら明らかにおかしい。なぜなら、麻理の中身がほんとうに小森なのだとすれば、影の男が行為の主体であって、欲望を向ける対象が麻理になるはずなのに、ここでは完全に逆の構図になっている。注意深い読者なら、この場面の麻理は小森ではなく元々の人格であるということに気づけるはずだ。

消えた麻理探しは終盤に至り、じつは麻理のほうが小森に一方的な憧憬を抱き、病的なまでのストーカー行為の対象にしていたという事実が浮かび上がってくる。麻理は生まれたときの名前はふみこ(史子)だった。しかしそれを名付けた優しい祖母は早くに亡くなり、厳しい母親から麻理という名前を無理矢理おしつけられる。それから両親は離婚し、父は再婚する。学校での女子グループと同じくうわべしか見てくれない継母。彼女は外見しか見てもらえない、表面でしかつながることのできない人間関係の苦しみから、誰とも何のつながりももっていない(実際は、本人はそれゆえに苦しんでいるのだが)小森功にたまたま目をつけひそかに行動を観察するようになる。ついには部屋に入り込んで日記を盗み見る(小森は最低な人間どころか、住居侵入やプライバシーの侵害などの被害者なのだが、その点は作中ではふれられない(笑))。それによって知りえた事実をもとに、「小森功」という別の人格を作り上げた。もちろん、現実の小森功にもとづいているとはいえ、完全に別の人格である。

「美しい」というのはいうまでもなく、人や物事の本質をおおいかくしてしまう厄介な性質である。美人であれイケメンであれ、僕たちは外見がすぐれている人に接するとまずその美しさに気をとられてしまって、その人もひそかに悩みを抱えているのではないかとか、美しいがゆえに損することもあるのではないかといったところまでなかなか想像力が及ばない。作中においては依が典型的な例だ。彼女もまた複雑な家庭の事情を抱えていて、みずからの居場所はどこにもないように感じている。彼女には麻理が雲の上の輝く太陽のような存在に見える。その輝きに目が眩んでしまって、麻理の内面に深刻な病理が巣くっていることに気づかない。

しかし依は、最初は麻理を神聖な存在とみなすあまり彼女のなかの小森を追い出すことしか頭にないのだが、しだいに毛嫌いしていたはずのその小森に惹かれるようになっていく。美しいが決してつながりあえない麻理ではなく、麻理の向こうにいる小森に、自分と同じく周囲の人間の輪に入れない小森とのつながりを求めるようになるのである。その描写からは、依自身の人間のとらえ方が成熟へと向かっているのを感じさせる。

思いを寄せるかわいい女の子を「天使」などと呼んでしまうのは中二病の最たる例だろう。レディオヘッドの「クリープ」的な痛々しさがある。依は女の子だが、登場した時点での彼女がやっていることは、意中の女の子を天使と呼んで一方的にあこがれている男子と同じである。少なくとも外見的なコンプレックスがないイケメンはまずそんな発想をしない。彼らは女の子を、きれいな部分もあれば汚い部分もある自分と同じ人間としてとらえる。彼らは最初から自然にそういうとらえ方ができるので、持ち前の外見的アドバンテージを武器に女の子との接し方を積極的に学んでいき、さらにモテるようになっていく。生まれつき裕福な者はさらに裕福になっていき、貧しい者はいつまでも貧しいままであるというわけだ。ブサイクな人間はたいてい自尊心や自己評価が低いから、好きな相手を天使だか王子さまだかに神格化してしまい、最悪の場合、それの何が問題なのか一生気づかないまま終わる。僕としては、依はそういった問題に気づき、人を外見ではなく中身で見るようになるキャラクターとして好ましく感じる。

現実的には二重人格というのは吸血鬼や透明人間なみにありえない設定だと思うのだが、それでも安易に夢や空想に頼らず、理論的な説明を試みているところには好感がもてる。「気持ち悪い」とか「最低だ」といったセリフ、麻理が手で小森の自慰を手伝う描写、それに麻理の精神世界の描写からは、明らかにエヴァンゲリオンの旧劇場版からの影響がみてとれる。麻理の苗字である吉崎は『I”s』の葦月伊織から? まあこれらはオマージュと呼んでいいのかもしれない。

あともうひとつ、作者は第1巻のあとがきで女の子として生まれ、心も体も完全な女の子として生きたかったという願望を披露している(pp.92-95)。進展した依と麻理の関係性が単なる友だちではなくどう見ても百合なので、作者がそういう願望を抱いていても何もおどろかない。いちおう、決して踏み込むことができない女の視点から世界を見てみたいという理由が書かれているが、こういうことを言う人に限って実際に女に生まれていたら男に生まれたかったと口にするだろうなと思う。

ただ、この気持ちは僕も少しわかるような気がする。毎月生理がある、出産がある、男よりも賃金が低い、男よりもさらに外見をシビアに判断される、人間関係が男以上に大変とか、女になりたくない理由はいくつも浮かんでくるのだけど、それでも僕たち男からすると女性は美しい。その一点だけで女性になってみたい気がする。作者が描く女の子、とくに麻理が美しいのは、美しい存在である女性には絶対になれない男という生き物の悲哀がにじんでいるようにも思う。かわいい女の子、それは中年男性が決してつかむことができず、だからこそ自分がなってみたいと願う究極の幻想なのかもしれない。