新田次郎『アラスカ物語』(新潮文庫、1980年)

新田次郎の『アラスカ物語』を読んだ。レイモンド・カーヴァーの作品に「アラスカには何があるのか?」("What’s in Alaska?")という短篇があるが、この本を読んだあとでは「フランク安田という男の生涯があるのだ」と答えざるを得ない。とてもすがすがしくて、深く胸を打つ作品だと思う。だいたいにおいて僕はノンフィクションだとか実在の人物に材をとったみたいな作品が苦手で、そのせいで歴史小説はほとんど読めたためしがない。当然のごとく司馬遼太郎なんかも途中で放り出してしまった。これはおそらく、現実というものに対する僕自身の感覚が多分に影響しているだろう。小説というものは、あくまで現実を材料としていながら、それを異なったものに作りかえてしまうような力がなければダメなんだという気持ちがある。だから、自然主義や合理主義、実証主義にもとづいて書かれた作品にはいまいち気持ちが入っていかないのだけれど、『アラスカ物語』はちがう。新田次郎はこれが初読なのだが、最初にしていきなり最高の小説に出会ってしまったような興奮と感動がある。

思うに、これは作者自身がフランク安田という人物に並々ならぬ関心と情熱を注いでいるからで、その熱量が人物の動きや自然描写のすみずみまで行きわたり、誠実かつ感動的な作品をつくりあげている。じっくり読み進めながら、フランク安田のいったい何が作者をここまで突き動かしたのだろうかとぼんやり思ったが、巻末に付されている「アラスカ取材紀行」を読むと、その思い入れの深さ、取材の徹底ぶりにおどろかされる。しかし、あくまでこれは実在した男の生涯に取材しているというだけで、まぎれもなくひとつの冒険活劇、ひとつの文学作品である。そっけないと言っていいくらいきびきびとした文体で書かれているが、かといって単調ではなく、余計なものをそぎ落とした美しさを感じる。「第一章 北極光(オーロラ)」の冒頭部分からもう目をくぎづけにされるので、すこし引いておこう。夜空を見上げてオーロラを目にしたフランク安田の恐怖と、自然の驚異とが詩的かつ科学的な観察を交えて描写されている。

「空で光彩の爆発が起っていた。赤と緑がからまり合って渦を巻き、その中心から緑の矢があらゆる空間に向って放射されていた。彼に向って降りそそがれる無限に近いほど長い緑の矢は間断なく明滅をくりかえしていた。光の矢は彼を射抜くことはない。それは頭上はるか高いところで消えた。だが、消えた緑の矢は、感覚的には、姿を隠したままで、彼に向って降りそそがれていた。/身体(からだ)に痛みこそ感じないが、恐怖は彼の全身を貫き、しばしば立止らざるを得なかった。(中略)それは夜空に咲く花でもないし、打ち揚げられた煙火(はなび)のようなものでもなかった。それこそ暗い空間における色彩の舞踏であり、夜の天帝の権威を背景にした威嚇(いかく)であった。虹(にじ)とは全然異なったものだった。空には色の配列の順序が決められていた。色と色の境目には中間色があった。」(新田次郎『アラスカ物語』新潮社、1980年、pp.5-6)

このあとにオーロラの神秘的な色彩についての描写がさらに続く。新田はもともと中央気象台(現在の気象庁)職員だったということなので、空の、とりわけオーロラという極地でしか見られない自然現象の描写となると、すばらしくペンが冴えている。

ジャパニーズ・モーゼなどと称されるフランク安田の人生はウィキペディアで史実を眺めているだけでも、まるで小説のようだなと感じるのだが、これはまさに作者と題材とが幸福な出会いを果たした作品だといっていいだろう。とにかく、この作品のなかの登場人物たちには生命が宿っている。イヌイット(作中では時代もありエスキモーと表記されているが、本来は蔑称である)の文化や生活、それに、一般的に有名なカリフォルニアのそれではなくアラスカのゴールド・ラッシュの様子が描かれているのも自分には目新しくてよかった。考えてみれば、日本におけるアイヌの人たちのこともよく知らないけれど、今回の読書によってそういった人たちの存在にもすこし関心が湧いたのだった。