英語というふしぎな言語

2025年10月11日

われわれ日本人にとって外国語といえば、なによりもまず英語である。このブログでは僕が独断と偏見によってえらんだ英米のポップスを対訳というかたちで紹介しているが、なぜそんなことをするのかというと、ひとつは自分の好きな曲をほかの人にも知ってもらいたいからである。スウェーデンのインディーポップグループ、アシッド・ハウス・キングズの作品に『ミュージック・サウンズ・ベター・ウィズ・ユー』(Music Sounds Better with You, 2011)という愛らしいアルバムがあるが、やはりいい音楽は自分ひとりで楽しむのではなくほかの人とわかちあえたほうがより素敵なものにかんじられる。

とはいえ、歌詞の翻訳もまたそれだけでひとつの職業として成りたつような高度な作業だ。文芸作品の翻訳はそれが100%ことばでできているだけに、作品が生きるか死ぬかもまた100%翻訳者の力量にかかってくる。責任はまことに重大である。一方、歌詞となると、それはあくまでも音楽を成りたたせている要素のひとつでしかないため、その翻訳はどうしてもやや軽いものと受けとられることが多い。早い話が、ブックレットに掲載されている翻訳がとんでもない代物だったとしても(いまはそんなことはないが、昔の洋楽CDについている翻訳はずさんなものがわりに多かったように思う)、そのアーティストやバンドの音楽のすばらしさが減じることはない。しかし、誤訳は避けられないにしても、できるだけ少なくとどめたいという誠実さは僕もいちおうは持ちあわせているつもりである。

反対に、歌詞の翻訳のほうがやさしいと感じられる部分もある。それはたとえばあるフレーズのニュアンスが文脈からもうまくつかめないときに、その部分がどう歌われているのかをじっくり聞いてみる。演奏に注意を払ってみる。そうすると自然に解決するという具合である。これは物語形式の歌(バラッド)の場合に、Iやyouといった人称代名詞をどう訳すか決定する際の手がかりにもなる(Iを「僕」とするか「私」とするか、youを「あなた」とするか「君」とするかでずいぶん雰囲気が変わりますよね)。このあたりは文字だけで成りたっている散文の翻訳にはない強みだといえるだろう。しかし、僕の語学力がとぼしいせいだと思うけれど、どんなに単純と思える歌詞であってもかならずどこかひっかかるところが出てくる。

もう長いあいだ、英語とはいったいどのような言語なのだろうということが自分のなかに関心ごととして存在している。中学生になったころは日本語しか知らないので、ほかの多くの生徒たちとおなじように、僕も英語を唯一絶対の外国語とみなして勉強していた。だからbeautifulと書いてなぜ「ビューティフル」と発音するのか、oneと書いてなぜ「ワン」と発音するのか、なぜ3単現のsなどというめんどうな規則が存在しているのかとひっかかりをおぼえながらも、みんな最終的には「そういうものなのだ」で片づけていった。そんなことでいちいち立ちどまっていたらほかの国語・数学・理科・社会の勉強ができないではないか。

それから時が経ち、僕は大学では第二外国語としてフランス語を履修し、コロナ禍の暇をもてあました時期にはドイツ語を独学し、さらにいまはロシア語の学習に取り組んでいるところだ。ロシア語については、政治的な意図はいっさいない。この言語は僕にとってはドストエフスキーとトルストイの言語なので純粋な語学的好奇心ゆえである(『時々ボソッとロシア語でデレる隣のアーリャさん』がなんといってデレているのか知りたいわけではない)。どの言語もまちがっても習得したなどとはいえず、いずれも低いレベルにあるとはいえ、母語である日本語とあわせて4言語の視点から英語をみてみると、この世界の覇権をにぎるにいたった言語はじつに奇妙な代物であるというかんじがする。イレギュラーのかたまりなのである。

言語には語族と語派という考え方がある。人間にたとえれば家系図のようなものだ。近しい血縁関係にある人どうしは他人よりも親しみをかんじるし、外見も似ていたりするものだが、おなじことは言語にもあてはまる。まず、西洋の言語のほとんどはインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)という大きなグループに属している(「ほとんど」というのは、ヨーロッパの言語でありながら、たとえばフィンランド語やハンガリー語などはインド・ヨーロッパ語族ではなくウラル語族というべつの大グループに属しており、西洋語=すべて印欧語ではけっしてないからである)。英語もフランス語もドイツ語もロシア語もみんなこのグループに入る。より細かい区分である語派でみていくと、英語とドイツ語はゲルマン語派、フランス語はラテン語派(ほかにスペイン語、ポルトガル語、イタリア語といったラテン語からの派生言語が含まれる)、ロシア語はスラヴ語派である。

英語とドイツ語はおなじゲルマン語派なので比喩的ないいかたをすれば骨格が似ている(かつて存在したとされるゲルマン祖語からわかれたゲルマン語派にはほかに、オランダ語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、アイスランド語などが含まれる)。基本語彙をみると、たとえば「行く」は英語ではgo、ドイツ語ではgehen(ゲーエン)、「持っている」は英語ではhave、ドイツ語ではhaben(ハーベン)といった具合である。こういうかんじであれば、英語ネイティヴにとってはドイツ語はかんたんに習得できる外国語なのだろうと思えてしまう。それはだいたいあっているが、もっと楽に習得できる言語がある。フランス語だ。

おなじゲルマン語派であるドイツ語よりもラテン語派であるフランス語のほうがかんたんとはどういうことだろう?と思ってしまうが、これはごくおおざっぱにでもフランス語と英語史を概観してみればすぐに理解できる。カウントのしかたによっても変わってくるだろうけど、現代英語の語彙の6割くらいはフランス語(およびそのもととなったラテン語)由来であるとされている(発端は1066年のノルマン・コンクエスト)。英語は骨格はドイツ語とおなじゲルマン語派であるのに、その肉づきはむしろラテン語派であるフランス語のほうに近いのである。だからかりにフランス語の知識がまったくなくても、英語がわかるのであれば、フランス語の文をみたときに英語らしき表現があちこち目につくということになる。これはたとえていえば、日本人が中国語をみたときに、正しい発音はわからないにしてもなんとなく意味がくみとれるという状況に近いだろうか。

そのほか、時制(目にはみえない時間をどう切りとって表現するかというしくみ)に目を向けてもドイツ語よりはフランス語のほうに似ているし、複数形の基本的なつくり方(語尾に-sをつける)にしても歴史的な偶然だろうけどフランス語と共通する。中世ヨーロッパにおける国際共通語は長いあいだラテン語だったし、17世紀から20世紀初頭にかけてはフランス語がその地位をになっていた。だからヨーロッパの言語はどれも多かれ少なかれラテン語から影響を受けているし、とりわけラテン語派以外の言語は近代に入ると目立ってフランス語からの影響を受けることとなった。ドイツ語をみていてもそうだし、ロシアにいたっては、19世紀の貴族たちのあいだではフランス語ができることこそが教養の証とされていて、むしろ母語であるロシア語の読み書きのほうが不得手という人たちもいたそうである。他方、英語はフランス語に「影響を受けた」などという半端なものではなく、フランス語が入ってくる以前と入ってきたあとでは別言語といってもいいくらい姿がかわってしまっている。

ということで、英語ネイティヴがなにか外国語をやるとなると、ごくおおざっぱないいかたをすれば、フランス語のほうがドイツ語よりは習得しやすい。ただし、それはもちろん個人差もあるし、言語に対する感性というものも大きくかかわってくる。僕自身は、フランス語は音がきれいだといわれているし、おしゃれだからやってみよっかな~というミーハーな気持ちでフランス語を第二外国語に選んだのだが、なかなか大変だった。むしろ20代後半頃に独学したドイツ語のほうが上達が早かった(よく格変化がむずかしいとかいわれるけど、気合いで覚えてしまったらあとはそんなにたいしたことない。そして慣れてくるとドイツ語という言語の緻密さに感動すらおぼえるようになる)。まあ、いっぺんフランス語をやっているので名詞の性別とか格変化とかの概念がすっと頭に入ってきたというのもあるかもしれないが、僕は感覚的にはロマンス語よりもゲルマン語のほうがしっくりくるようだ。

何をもってして言語が美しいというのか、それはよくわからない。まあ母音中心のロマンス語のほうが相対的にゲルマン語よりは美しく聞こえるのかもしれないが、そもそも美しさというのは主観的なものである。僕からすれば、なんかモショモショいっているように聞こえるフランス語より日本語の音声のほうがはるかに美しい。母語というバイアスがかかっているのだから当たり前である(まあ、フランス語は性数一致をさしおいて音の連結によるなめらかさを優先するあたり、独特のこだわりというか美意識がみえて好きだが)。一方、ドイツ語は音が汚らしいという、いまにして思えばとんでもない偏見を長いこと抱いていた。いまでは汚いとは思わないが、いかにも重厚な響きの言語であるとは感じる(たとえば「歴史」は英語だとhistory、フランス語だとhistoire(イストワール)、ドイツ語だとGeschichite(ゲシヒテ)だ)。どうにもフランス語がしっくりこないので、イタリア語に手を出したこともあったが、それもなにか違うかんじがして、けっきょくドイツ語だけ違和感がなかった。

やや話がそれてしまったが、ふたたび英語を話題の中心にもどそう。インド・ヨーロッパ語族はあらゆる名詞に性別をわりふるというのを大きな共通の特徴としているが(文法的性)、どういうわけか英語ではそれがほとんど消失している(「ほとんど」というのは、たとえばmoon(月)やship(船)などを女性に見立てて代名詞をsheで受けるといった詩的な語法がなくはないからである)。文法的性の所有は、ロシアのようなヨーロッパに位置していながら同時にアジアに位置している国の言語でも同じである。ロシア語はドイツ語とおなじように男性・女性・中性の3つを有しているが、おもしろいことに冠詞はない。そのためロシア語ネイティヴはわれわれ日本人とおなじように英語のa/anとtheの使い分けに苦労するようである。

動詞の活用はどうだろうか。外国語は英語しか知らなかったころ、なぜ3単現のsなんかが存在するのかと不思議に思っていた僕だが、いろんな言語を勉強してみてわかったのは、英語だけがおかしいということである。事実は逆で、むしろなぜすべての人称で活用しないのか?と問うべきだろう。フランス語の動詞の語尾はつづりがちがっていても発音してみるといっしょになったりするし、ドイツ語も人称はちがっていてもおなじ活用語尾がついたりするが、その点、ロシア語はすべての人称で活用語尾が異なっているのでやや複雑だ。かつて、英語もまた動詞の活用をきっちりと有していたが、いまでは3単現のsなどにその名残をとどめているだけである。個人的な想像だが、さすがにdo/doesの使いわけは残っても、いずれ英語の3単現のsは消失するのではないかと思っている。というのは、3人称単数だけをほかの人称と区別する必要性というものがまるでないからである。わざわざ3人称単数だけ区別するくらいならいっそなくしてしまったほうがいいのではないか(逆に3人称単数以外のすべての人称に活用語尾をつけるというのも考えられるが、これはまあ非現実的だろう)。

英語は名詞の性別を消失させ、活用語尾のほとんどを退化させたが、それによってなにが起きるか。まず大きな利便性と思えるのは、単語をおぼえたらすぐに使えるということである。loveという単語をおぼえたらI love you. You love me.とすぐにいえる(S/he loves me.だけは気をつけないといけないが)。フランス語のaimer(エメ)であればJe t’aime. /Tu m’aimes.(ジュ・テーム/チュ・メーム)のように、ドイツ語のlieben(リーベン)であればIch liebe dich./ Du liebst mich.(イッヒ・リーベ・ディヒ/ドゥ・リープスト・ミヒ)のようにそれぞれ動詞の形をすこし変える必要がある。また英語は動詞と名詞がおなじ形をしていることが多く、しかも名詞に性別がないのでさきほどの動詞のloveはmy love, your loveのようにただちに名詞として用いることが可能だ。フランス語だとmon amour(モナムール)、ドイツ語だとmeine Liebe(マイネ・リーベ)のように所有をあらわす語はそれぞれの名詞にあわせた形にしないといけない。ノンネイティヴでも単語を覚えたらすぐさま使えるようになる、これは英語のすぐれたところである。

ただし弊害もある。英語は動詞の活用が退化しているし、冠詞類や名詞の格変化ももっていない。そのため語形によって「~が」「~に」「~を」といった文法的機能を明示できないので、語順を厳格に定める必要がでてくる。The man loves me.といえば「その男が私を愛している」だが、I love the man.といえば「私はその男を愛している」になる。the manをどの位置におくかで文中における役割が自動的に決まるのである。だから英語では単語をどのように並べていくか、つまり語順が文法的機能の決定をになっているという意味できわめて重要だ。5文型(SV, SVC, SVO, SVOO, SVOC)をきちんと理解しないまま先へ進んでいく生徒はすくなくないだろうけど、それはまさに無謀なことで、かならずあとで壁にぶつかることになる。5文型の知識はいわば方位磁針のようなものなのだ。その点、ドイツ語やロシア語は格を明示するので、それにともなう煩雑さはあっても、おかげで語順は比較的自由になる。

英語のむずかしさはいろいろあるが、つづりと発音の乖離はもはや悪魔的なものだろう。フランス語も発音しない文字をつづったりしないといけないが、それはラテン語の出自をきちんと示すという役割があるし、なによりつづりと発音の関係性はかなり規則的である(ドイツ語とロシア語はさらに規則的である)。もともとがゲルマン語派であるのに、そこに系統が異なるフランス語をとりいれたことで生じたつづりと発音のずれを是正しないまま現代にいたっているのだ(注)。平たくいえば、英語にはつづりと発音の規則などあってないようなものなのである。

(注)とはいえ、是正しないことのメリットもたしかに存在している。このあたりのことに興味のある方はバーナード・ショーとghotiで調べてみてください。

ひらがなの「あ」という文字はどんなときでも[a]と発音する。これを場合によっては[i]と発音する、[u]と発音するなどということはけっしてない。そのような文字(つづり)と発音の一対一の対応はフランス語でもドイツ語でもロシア語でもきちんと保たれている。しかし、英語のaという文字はfameであれば[eɪ]、handであれば[æ]、callであれば[ɔː]、artであれば[ɑː]と発音する。でたらめもいいところだ。いちおうつづりと発音の規則性らしきものは存在していて、そのおかげで先ほどの単語が読めるのであればsale, land, fall, smartも正しく読めるよね?という理屈なのだが、こんなものは規則性ではなく偶然の一致とよぶのが適切だろう。なんでかわかんないけど、manとhatとJapanのaはみんな[æ]の発音なんだよね~という個別の事象をなんの脈絡もなくかき集めていったものが、英語ではつづりと発音の規則と称されているのである。

つづりと発音に関連してアクセント(強勢)についてもふれておこう。たとえば英語では名詞と動詞がおなじ形をしている語というのはめずらしくないが、ではそういった語はどうやって品詞を識別すればいいのだろうか。さきほど述べたように、まずは文中のどの位置にあらわれるのかが品詞特定の手がかりになってくるが、さらにそれを補助するものとしてアクセントの移動が指摘できる。recordという語を例にとると、これは「記録、レコード」という意味では名詞、「~を記録する、録音(録画)する」という意味では動詞である。この場合、re-の部分を強く読むと名詞、-cordの部分を強く読むと動詞になる。名詞と動詞がおなじ形をしているのでおぼえたらすぐに使える、その代わり、それらを区別するためのアクセントもあわせておぼえなくてはいけないという煩雑さがある。これなんかはまさに英語の特徴がよく表れていると思う(それでも名詞と動詞の区別がつかないといったじつに奇妙な状況は英語ではときおり起こりうるものだが、フランス語やドイツ語、ロシア語ではまず考えられない)。

なお、recordだけでなく、英語では単語のアクセントの位置は単語ごとに決まっているから、それを一つひとつおぼえていかなくてはならない。名詞の性別を暗記する手間がはぶけるのはありがたいけれど、そのかわりアクセントという難物が待ちかまえているのである。そしてこのアクセントがつくりあげる強弱のリズムこそが英語を英語たらしめている超重要な要素なので、ぜったいに避けてとおることはできない。個人的に、英語はほかの3言語とちがって、上級者になってもあいかわらずつづりや発音、アクセントといったごく基本的なところで苦労をしいられる言語という印象がある。

ちなみに、ロシア語ではアクセントの位置によって発音そのものが変わるという特徴がある。たとえばхорошо(ハラショー:(副)よく、上手に)ということば。ロシア語のoはアクセントがある場合は[o]、ない場合は[a]と発音する。だからхорошоは最後のoにアクセントがあるということを知っておかないと正しく発音できない(英語とおなじようにロシア語ではアクセントを表記しないが、教科書や参考書のたぐいには表記してある)。発音がアクセントの位置に依存するので、暗記していないと正しく発音することができないのは大変だが、それでもかなり規則的に決まっているので、英語にくらべればはるかにましである。

僕の知人に、英語はあいまいすぎてわからないといっている理系の人がいる。その人がいうには、英語に文法はあってないようなものだ、もっと論理的であってほしいというということらしい。個人的に、そんな屁理屈をこねているから英語ができないんですよと教えてあげたいところだが(笑)、まあその気持ちもわからなくはない。僕自身はどちらかというと考えることよりもおぼえることのほうが得意な人間で、英語はひたすら音読したりノートに書いたりして理屈はあとまわしでとにかく体にたたきこんでいった。たぶんこのやり方は正しかったと思う。あまりに理屈っぽい人は英語学習には向かないような気がする。でもある程度基礎が身についてから英語をながめてみると、なぜ関係代名詞は「人かモノか」で区別するのか(関係代名詞についていえば、「人かモノか」というカテゴリーではなく先行詞が主語であればqui(キ)、先行詞が後続する動詞の直接目的語であればque(ク)になるフランス語はその点いかにも合理的である)、なぜ過去形と過去分詞がどっちも-edなのか(まぎらわしくてしょうがない)、なぜ3単現のsがあるのか(ほかの人称での活用は消失しているというのに)など、いろんな疑問がうかびあがってくる。

さて、フランス語・ドイツ語・ロシア語を引き合いにだしながら英語について好き勝手なことを書いてきたが、これはあくまで僕という個人の見解であって、学術的な根拠があるというものではないので注意していただきたい(そもそも英語と比較するのに使っている言語の選択がアービトレリ(恣意的な)ものである)。なんだかんだいって、ノンネイティヴであるわれわれには英語というのは忘れられない初恋の相手のようなものだろう。それは文字どおり最初に教育をうける外国語であるからだし、どんなにほかの言語に打ちこんでいるときでも、つねに英語の影がちらちらと見え隠れするからである。これはいわば、どんなに新しい人を好きになっても、初恋の相手には心のなかの特別な場所がとっておかれている状況によく似ている。われわれは英語から逃れることはできない。こんなふうに書くと、僕は英語から逃げたがっているように思われそうだが、そんなことはない。僕はむしろ英語という言語に非常な愛着をいだいているつもりだ。

ポーランドの眼科医であったザメンホフはエスペラントという人工言語を創造した。かれは生まれ育った地域が言語によって分断されており、そのせいで争いや不和が絶えないことに心を痛め、みずからの手で国際共通語をつくる決心をした。たいへん立派なことである。しかし個人的に、かれが見落としていたと思えることは、言語はたしかに人によって生み出されるものであるが、ある種の偏りをもった個別性を抜きにしてはほんとうの言語にはならないということだ。こんにちでは、英語はあまりにも多くの人びとに使用されていて、おかげで純粋な国際共通語としての地位を獲得しているように思えるが、もとをただせばやっぱりイギリスやアメリカの人々の感性やものの見方、文化が深く刻まれたことばである。そしてその感性やものの見方、文化という個別性にはある種の偏りが避けがたく含まれている。しかし、そういった一見して不合理と思える偏りを取りさってしまえば、英語はその独自性や魅力を失い、もはや英語ではなくなってしまうだろう。

「創世記」のバベルの塔の物語にあるように、人間は世界各地に散りぢりになり、異なる民族どうしでは言葉がわからないという状態におかれてしまったが、かりに世界じゅうの人々がおなじひとつの言語を話していたら、しだいに考え方がこりかたまってしまって、まずい方向に進んでいってもだれも歯止めをかけることができないかもしれない。ダイバーシティ(多様性)というものは言語においても担保されるべきものだと思う。たとえそれによって不便が生じるとしても、互いがちがっていることを認めあい、理解しあおうと努力するのが人間ではないか。しかし、その仲介になる国際共通語があったほうがいいというのはまさにその通りであって、僕も否定するところではない。

英語ネイティヴからしたら母語である英語が心のよりどころになるわけだが、圧倒的多数のノンネイティヴにとってはしょせんよそもののことばだから、英語という言語の完成度についてはあれこれ言いたくもなる。この部分はすばらしいけど、ここは変だよというふうに。言語学やコミュニケーション理論の観点から、ここをこう変えたほうがもっと情報伝達の効率がよくなるとか、いろいろ提言することもできるだろう。そうやって多くの人が英語という言語に関心をもち、漫然とではなく意識的に用いるようになること、それによって英語はほんとうの国際共通語に近づいていくのではないかという気がする。いずれにせよ、たまたま国際共通語という特別な地位が与えられたこの言語にたいして、われわれはときにその難しさに不満や愚痴をもらしつつ、ときにはそれが情報発信を促し、外国人との交流や異文化理解を深めてくれることに喜びや感動をおぼえつつ、母語との共存をはかっていくしかないだろう。