タリアイ・ヴェーソス『氷の城』(朝田千惠/アンネ・ランデ・ペータス訳、国書刊行会、2022年)
「ああ、これはすごい小説だ!」というのではなく、最初はうすぼんやりとしていた光景が、辛抱づよくカメラをのぞきこんでいるうちにすこしずつ像を結んでいく、そんな確かさをそなえた小説である。
学生のころはとにかくたくさん小説のことを知りたかったので、海外文学はまず訳者解説やあとがきを読んで背景知識を仕入れてから本編を読む(ときにはそれだけでわかった気になってしまい、本編を読まない)という行為に抵抗がなかった。しかしこの物語は、まずいっさいの背景知識を抜きにしても読めるというか、未読の方にはむしろそうすることを勧めたい。帯に推薦文を寄せているのは山崎まどか氏と朝吹真理子氏だし、ドリス・レッシングがほめちぎってもいるので、ともすると少女趣味の物語と誤解されそうだが、じっさいのところこの小説はだれが読んでも心の深いところに響くような普遍性でみたされている。
作者は近年再評価がすすむノルウェーの作家、タリアイ・ヴェーソス(Tarjei Vesaas)。1897年、南部のテーレマルク県ヴィニエで生まれる。1923年に長篇『人間の子』(Menneskebonn)でデビューし、しだいに文名を高めていき芸術家に対する国からの生涯給与を受けるまでになるが(ノルウェーにはそんな制度があるのか、すごいなあ)、略年譜をみるかぎり、この作家が現在記憶されているのは、短篇集『風』(Vindane, 1952)、長篇『鳥』(Fuglane, 1957)、そしてこの『氷の城』(Is-slottet, 1963)と、主として後期の仕事によってである。ノーベル文学賞に30回ノミネートされたそうだが、それはもう受賞したってことでいいんじゃないのか。70年、72歳で没。
日本に目を移すと、1899年に生まれ72年に没している川端康成とほぼ同時代を生きたことがわかるが、女性的な情緒をえがくことに長けており、『親友』という少女小説が発掘されもした川端とは、感性的に重なるところがあるような気がする。
とはいえ本質的なところはまるでことなる。『氷の城』の舞台は雪と氷につつまれた冬のノルウェーの田舎なので、川端の四季折々の世界とはちがって、とにかく厳しい。それに名前を与えられているのは主人公の少女シスと、その友人で氷の城に姿を消すウンのふたりだけで、あとはウンの「おばさん」とか、シスのことを「ブーツでつついた男の子」とか、学校の「先生」というふうに、あらゆる固有名詞が排除されている。いつの話なのか、ノルウェーのなんという場所なのかもわからない。これはきわめて異様な書き方だが、ヨン・フォッセの戯曲『だれか、来る』(Nokon kjem til å komme, 1994)もそういう人物の関係性だけで成り立っていたから、このあたりがノルウェー文学のひとつの特徴なのかもしれない。
川端の小説は基本的にプロットというものがないが(そもそもそんなものには関心がなかったというべきか)、この物語にはいなくなったウンを捜索するという明確なプロットが存在し、彼女の「不在」を軸に、シスの内面の変化を読み取らせるというしかけになっている。その意味ではカミング・オブ・エイジの小説といっていいだろう。物語の開始時点では、暗闇を怖がり、転校生でおばさん以外に身よりのないウンのほかはだれにたいしても心を開かないシスの思春期特有のぎこちなさが表に出ている。このふたりの関係は同性愛的でもある。
ウンが氷の城に消えてからは、彼女のことしか想わない、考えないという誓いをみずからに立て、ますます内にとじこもっていく。それが、物語がすすむにつれて徐々に心のこわばりがとけていくのだが、「近所の少し年上の少年」に「えくぼがあるんだね」といわれただけで顔を赤らめ、すべてがきらきらして見えるという場面はなんともいえずほほえましい(pp.266-271)。小説の語りはあくまでシスに焦点をあてているのだが、彼女をとりかこむ周囲の人たち、とりわけ友人たちが彼女を思い、気にかけるさまは、彼女のウンにたいするまじりけのない、あまりにも一途な想いにも匹敵するように感じた。
「氷の城」という幻想的なモチーフはなにをあらわしているだろう? 城というものは破られることがないようできるだけ強固であるべきものなのに、それがこわれやすく、日の光によってとけさってしまう氷でできているとは。この小説の魅力は物語そのものにくわえて、すぐれて写実的かつ抒情的なノルウェーの自然の描写にもあるというのはいうまでもない。シスの怖がる「暗闇」、物語の中心に屹立する「氷の城」、春のおとずれを告げるような「木管奏者」といった、だいたいなにを象徴しているかは察しがついても、みかけほど単純ではない多面的な要素が物語に独特の詩的雰囲気と立体感をあたえている。
僕にとって、『氷の城』はおよそ言語芸術として瑕疵のない、理想的な物語である。








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