語学のたのしみ②

2025年10月11日

前回の文章のつづき。ここではロマンス語(フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語、ルーマニア語)、ウラル語(ハンガリー語、フィンランド語)、ギリシア語、ロシア語、トルコ語、アラビア語、ヘブライ語について書いている。

フランス語(French)

学生時代にいちおう授業で習ったので基礎は習得済み。一時期、フランス語を鍛えるのに熱をあげていたことがあって、サガンとか『星の王子さま』レベルなら原書でも読める。しかし、ふだんなかなか使わない能力はおとろえていく一方で、いまでは相当にがんばらなければ読めないし、読みたくて買ったパトリック・モディアノの原書も大量に積読しているという始末。そのうえ未邦訳のものはすぐに英訳に頼りはじめる。原語がわからないので英訳を参照するというのは、たぶん英語の正しすぎる使い方ではある。文字どおり英語は世界への扉を開いてくれるのだ。しかし同時に、この「原語がわからないなら英訳でいいじゃん」という態度をあらためないかぎり、英語以外の外国語はおそらく一生ものにできない。

フランス語は使いこなせれば「知的」であり、そしてなんといっても「美しい」というイメージがついてまわる言語である。「知的」であるというのは否定しない。学術の言語であるラテン語の子孫であるということに加えて、ヨーロッパでは長く国際共通語として用いられていたのだから。戦後、その地位は英語にゆずりわたすことになったものの、英語の語彙の大半はフランス語由来だし、20世紀に入っても新しい思想の発信地はつねにフランスだったので、依然としてフランス語の存在感にはほかのロマンス語の追随を許さないところがある。

「美しい」というのは、具体的にはスムーズに流れるような発音、ニュアンスのある独特の鼻母音などにその根拠がもとめられるのかもしれないが、いちばん大きいのは、自分たちの言語に世界でいちばん誇りを抱いているフランス人がひたすら宣伝しまくった結果だろう。言語そのものが美しいとはどういうことか? 個人が使う言語が美しいというのならわかる。僕は三島由紀夫の書く日本語はもっとも美しい日本語の部類に入ると思っているが、同じようにランボーやマラルメの詩が美しいとかんじる人はこの世に山ほどいるはずだ。言語が美しいかどうかはあくまで使い方しだいだ。フランス語そのものが美しいという言説ほど眉唾なものもないと思う。

フランス語にゆかりのある日本人をあげてみると、小説の分野では堀辰雄、大江健三郎、堀江敏幸、小野正嗣など(太宰治はカウントしなくていいだろう)。詩の分野では堀口大学、三好達治あたりか。書き出してみて、なぜか「堀」がつくひとが多いとわかった。異端という意味では澁澤龍彦も忘れてはいけない。

スペイン語(Spanish)

フランス語は愛をささやくときのことば、イタリア語は女性を口説くときのことば、そしてスペイン語は神に話しかけるときのことばとされていて、これを引き合いに出すとスペイン人のスペイン語への賛辞は余裕でフランス人を越えている(ちなみにドイツ語は馬に話しかけるときのことばだそうで(笑))。

植民地支配の影響でフランス語もいろんなところで通じるが、単純に話者数で考えると、ロマンス語のなかではスペイン語を最優先でやったほうがいいということになる。とくにアメリカはヒスパニック系の人々が急速に増えてきているので、将来、英語だけでなくスペイン語もできないと国内では支障が出るみたいな状況になっていくのかも。

学生時代、僕はほんとうはスペイン語をやりたかったのだが、授業がなかったので、それならばということでフランス語を選んだ。そのおかげでおなじロマンス語であるスペイン語がやりやすくなったのはいいことだが、スペイン語は発音がやさしいのでこちらを先にやれていたら抵抗感がすくなくて済んだような気がする。

ただし、スペイン語圏の文化になじみが薄いという問題がある。スペイン文学というと、セルバンテスの『ドン・キホーテ』やガルシア=ロルカの詩くらいしかぱっと思いつかない。個人的に、スペイン語は本国よりもコロンビアのガルシア=マルケスやペルーのマリオ・バルガス=リョサといったラテンアメリカ勢のほうがむしろ主流のような気がする。どういう裏事情があったのか知らないが、昨年やっと文庫化した『百年の孤独』が売れていることを思うと、日本はわりとスペイン語圏文学を受け入れる素地はあるんじゃないか。ただし、買ったものの読めなくて、そのまま中古市場行きになるケースも相当数あるだろうけど。

なお、金子奈美さんがキルメン・ウリベを訳しているが、バスク語(少数言語。スペインのバスク州など一部で公用語になっている)で書かれたものも日本語で読めるというのはほんとうにすごいことである。『ダイヤモンド広場』のマルセー・ルドゥレダのように、あえてカタルーニャ語で書くという作家もいる。

ポルトガル語(Portuguese)

オランダとおなじく、ポルトガルもまた日本との縁が深い。カステラ、コップ、かるた、たばこなど、そうとは知らずに使っているポルトガル語由来のことばは日本語のなかにたくさんある。しかしこんにちでは、スペインやイタリアと比べてしまうと正直ちょっと印象がうすい。それはポルトガルが小国であり、ヨーロッパのなかでも貧しい国だからだが(かつての隆盛はどこへやら)、そのことは言語にも影響している。ポルトガル語は本国のポルトガル語とブラジルのポルトガル語に大別されるが、ブラジルの経済成長がいちじるしいことから、基本的に非ネイティヴは主流である後者を学習することになる。とくにブラジルは日系人が多いので日本人はなおのことそうなるのではないか。

とはいえ、個人的にポルトガル本国に惹かれるのは、その文学的遺産ゆえである。ポルトガル文学といえば、なんといってもまずはフェルナンド・ペソア。イタリア人作家のアントニオ・タブッキは彼の詩に惹かれてポルトガル語を学びはじめたという。『白の闇』のジョゼ・サラマーゴはポルトガル語圏で初のノーベル文学賞に輝いた。

イタリア語(Italian)

フランスやスペインとちがって、イタリアは国家としても言語としても統一が遅れたせいで海外進出がほとんどかなわず、結果的にこんにちではイタリア語の使用はイタリア国内にほぼかぎられるというのが実情である。ラテンアメリカというのはようするにラテン語に由来する言語の文化圏ということだが、そこではスペイン語やポルトガル語が中心で、イタリア語は入れていないのである。だからビジネス的な観点でいけば、イタリア語よりもスペイン語のほうが学習の優先度は高い。

ただし、である。オペラが誕生したのはフィレンツェであるということからもわかるように、イタリア語はロマンス語のなかでもとくに優美なひびきをもつことで知られているし、それに基本的にすべてローマ字読みでオーケーというのはわれわれ日本人にとってはかなりとっつきやすい。食文化にしても、80年代から90年代はじめ頃の外食業界の戦略によるものだろうけど、高級志向のフランス料理にたいして、庶民的なイタリア料理ということで日本ではすみわけが功を奏し、パスタやピッツァは基本メニューとして定着するにいたった。華やかさをもとめるのならフランスだろうけど、僕はティッツィアーノやモディリアーニの絵画が好きだし、文学にしても愛着のある作家がたくさんいるので、イタリア語を推したい(『ノルウェイの森』の永沢さんだってスペイン語より先にイタリア語をやっていたぞ!)。

イタリア語で思いうかぶ日本人といえば平川祐弘。ダンテの『神曲』やボッカッチョ『デカメロン』の翻訳、西洋と東洋にまたがる比較文学研究で有名な、雲の上にいるようなお方である。イタリア語の泰斗というイメージが強いが、もともとはフランス語専攻だったようだ(これほどの才人にはもはやなにが専攻であったかは関係ないかもしれない)。翻訳の分野では須賀敦子、米川良夫、脇功、和田忠彦あたりか。イタリア語専攻で小説も書いているとなると大岡玲。現代イタリア文学の翻訳というところでは、関口英子さんの名前をみかけることが多い気がする。

ルーマニア語(Romanian)

ヨーロッパにあってルーマニアという国とその文化についてはほとんどゼロといっていいほど関心がなかったが、今年になって、済東鉄腸に影響を受けるかたちで急速に関心をもちはじめた。しかし、いま自分がルーマニア語をやっても彼のパチモンにしかなれない自信があるので、わざわざやろうとは思わない。

ルーマニア語はまぎれもなくロマンス諸語のひとつである。国名が「ローマ人の土地」という意味であることからもわかるように、じっさいルーマニア語はイタリア語によく似ている。しかし、隣国のブルガリアやウクライナといったスラヴ語圏、それにハンガリーやドイツ、トルコなどの影響も受けているため、ハイブリッドなロマンス語といったおもむきがある。

たとえば「じゃがいも」はcartof(カルトーフ)というが、これはドイツ語のKartoffel(カルトッフェル)からきているし、はい/いいえというときの「はい」はda(ダー)、「愛する」はa iubi(アユビー)で、これらはそれぞれロシア語のда(ダー)とлюбить(リュビーチ)から取りいれている。名詞形のлюбовь(リュボーフ)に相当するのはiubire(ユビーレ)だが、「愛」を表すのにより広く用いられるのはdragoste(ドラゴステ)ということば(注)。こうした日常語ですらゲルマン語やスラヴ語から借用しているというのはまことに奇妙であり、興味深い。

(注)「のまのまイェイ」の空耳で知られる「恋のマイアヒ」("Dragostea din tei")だが、これはモルドバ出身のO-Zoneによるルーマニア語の曲である。dragostea(ドラゴスタ)はdragosteに定冠詞の女性形aがついたかたち。ルーマニア語はこのように定冠詞を名詞の語尾として後置する特徴をもつ。

文化的にみると、ミルチャ・エリアーデは世界的に有名だし、異端の思想家エミール・シオラン(ただし彼は著作のほとんどをフランス語で書いている)、国民的な大詩人ミハイ・エミネスク、ポストモダン作家のミルチャ・カルタレスクなど個性的な面々がそろっている。

ごく普通の感性をもった人間はロマンス語であればフランス語かスペイン語をやるものと相場がきまっているわけだが(使える範囲が広いだけでなく、他のロマンス語をやる際に知識が活かせる)、どういうわけか済東鉄腸はルーマニア文化に魅せられてしまって、ルーマニア語で小説を書くほどのRomanian freakになってしまった。ここからわかることは、なにか一芸にひいでるためには普通の感性などむしろ邪魔にしかならないということである。将来、彼は住谷春也の遺志をひきつぐルーマニアと日本の架け橋になっていくのだろうか。

ハンガリー語(Hungarian)

まず、ハンガリー語はインド・ヨーロッパ語族ではなくウラル語族である。表記こそラテン文字を使っているが、学習に際しては英語はおろか、ドイツ語やフランス語の知識があったとしてもあまりに役にたたない。しかし、逆にいえば西洋人であっても日本人であっても、おおくは初めてことばを学びはじめたかのようなフレッシュな気持ちでスタートできるというポジティヴな見方も可能だ。

ハンガリー文学については最近、知識を仕入れたばかりだ。エステルハージ・ペーテル(ハイドンも仕えていた、あの名門エステルハージ家の末裔)、クラスナホルカイ・ラースローの2人のポストモダン作家、『運命ではなく』のケルテース・イムレ、マーンディ・イヴァーンなど。翻訳者は岩崎悦子さんと早稲田みかさんしか知らない。ルーマニア文学における住谷春也のように、傑出した人物がいれば一時的にその分野の翻訳紹介は進むだろうが、やはりジャンルとしての成熟を望むのであれば、一人でもおおくの人にハンガリーに興味をもたせるよう業界人が努力しなくてはならないだろう。

僕としてもハンガリー語はやってみたいのだが、正直これは還暦を迎えたころにガッツが残っていればやるかもな……くらいのハードルの高さである。

フィンランド語(Finnish)

『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』の表現をかりていえば、ムーミン、ノキア、マリメッコ。サウナの発祥地であり、オーロラはきれいだし、アキ・カウリスマキの映画も世界的に有名だ。たしかに北欧という地域でくくればフィンランドはスカンディナヴィア半島の一部であるし、ほかのゲルマン諸国とおなじように見えてしまうが、フィンランド人は民族的にフィン人(自称スオミ)であり、言語もインド・ヨーロッパ語族ではなくウラル語族なので、ハンガリーと同様にフィンランドもまたヨーロッパのなかでは独特の毛色をしている。

日本におけるフィンランド紹介は、冒頭に記したあれこれによって、すくなくともハンガリーよりは進んでいるように思う。教育先進国、幸福度の高い国ということで持ち上げられることも多いし。しかし、これでは日本のことを「スシ、キモノ、サムライ」のイメージでとらえている外国人なみに皮相な見方なので、やっぱりフィンランドのことを知ろうと思えばフィンランド語をやらなくてはいけないだろう。僕は思うのだけど、外国人の眼でみて、外国語でものを考えているかぎり、その国なりその文化圏なりをほんとうに知ることはできない。

いますぐフィンランド語もやれるわけではないが、いつか現地をおとずれるようなことがあれば初歩ぐらいは勉強してみたい。

ギリシア語(Greek)

古代ギリシア・ローマ世界という呼び名があるように、ローマとともにギリシアはヨーロッパ文明の源流のひとつである。旧約聖書はヘブライ語で書かれている一方、新訳聖書はギリシア語で書かれており(正確には前者は聖書ヘブライ語、後者は古典ギリシア語)、聖書学者であればその両方を修めることが必須である。それに古代ギリシアの哲学者を論じる人たちにとってもギリシア語は避けてはとおれないだろう。さらには広い意味でいけば古代ギリシア文学に影響を受けていない西洋文学などないのだから、文学系の人たちもギリシア語はできたほうがいい。ただし、"It’s all Greek to me."(それは私にはまったくギリシア語だ⇒ちんぷんかんぷんである)という英語の成句があるように、西洋人たちにとってもギリシア語をやるというのは並大抵の努力ではすまないようだ。

なぜ古典と現代の区別があるのだろう?と思ってしまうが、言語というのは本来、時間が経てば姿が変わるに決まっている。日本語だって古典と現代日本語とではまるでちがうものではないか。日本人であってもきちんと勉強しなければ古い時代の日本語はぜんぜん読めない。だから正確にいえばおおくの外国人が学ぶのはさしずめ「現代日本語」ということになるが、とりわけ参考書の言語名に古代と現代の区別があるのはヘブライ語とギリシア語くらいのものだ。それはやはり聖書という西洋世界の基盤をつくりあげた特別な言語だからだろう。それだけでなく、そこには自分にはわからない言語体系化にかかわる複雑な事情が関係しているのかもしれない。

ギリシア語には現代ではほとんどの印欧語から失われた中動態が存在する。能動態(…が~する)でも受動態(…が~される)でもなく、動作主自身がその動作の影響を受けるということを表す態(voice)である。これはたとえばフランス語のse laver(自分で自分を洗う)のse、ドイツ語のsich interessieren(興味がある)のsichのように、特定の動詞と特定の人称代名詞をセットで用いる再帰用法として表現するものもあるが、それも不完全だし、だいいち動詞の形態変化ではないという点で中動態とは似て非なるものである。なお、アルバニア語やアイスランド語はこの中動態をいまでも保存している数少ない言語だ。

ギリシア語にゆかりのある日本人をあげてみると、呉茂一、田中美知太郎、高津春繁、松平千秋、藤澤令夫あたりか。日本におけるギリシア文学、ギリシア哲学の受容を第一線で支えてこられた方々である。個人的に、岩波文庫といえばなによりもまずソポクレスやプラトンのイメージする。しかし岩波文庫のものは歴史はあるけれど訳が古いせいでわかりにくく、光文社古典新訳文庫のほうがなじむということもしばしばある。原典はけっして古びないが、翻訳は時の風雪にたえかねてすこしずつ古びていく。古典ギリシア語を勉強して自分で読めればいいのだけれど、いまのところは先人たち、そしてあとの世代の研究の成果をありがたく享受させてもらうしかないようだ。

ロシア語(Russian)

現在学習中。スラヴ語派のなかで最大の言語。ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、ゴーゴリなど、世界的に有名な作家たちを数多くはぐくんだ言語であり、彼らの書いたものをじかに読むためだけでも学習する価値がある。いまもロシアのウクライナ侵略は進行中であり、世界的にみてロシア語を学ぶ外国人は肩身のせまい思いをしているかもしれない。たしかに戦争はいたましいことだけれど、それによってロシア人に対するヘイトスピーチが起きたり、ロシアの歴史や文化そのものが否定されるということはあってはならないだろう。

ロシア語にゆかりのある日本人といえば、二葉亭四迷。小説家としては言文一致を実践したことで有名だが、ツルゲーネフなどの翻訳でも有名だ。中村白葉の家に養子入りした中村融、米川正夫と和夫の親子も有名(イタリア文学に進んだ良夫はよっぽどおやじや兄と同じことをしたくなかったんだろう)。木村浩、原卓也、江川卓、藤沼貴らはだいたい20年代半ば~30年代はじめ頃の同世代。それから50年代生まれの望月哲男、安岡治子(安岡章太郎の娘さんだ)、沼野充義・恭子夫妻(共訳されているときは日本のRichard Pevear&Larissa Volokhonsky夫妻みたいだ)がつづく。日本におけるロシア文学の受容というのはかなり進んでいる。ただし、それは古典が中心であって、現代文学となるとリュドミラ・ウリツカヤとかアンドレイ・クルコフとかおもしろいのはあるけれど、もうちょいいろいろ読みたい。あるいは、新しいものはあるのだけれど、ただ単に僕が追えていないだけかもしれないが。

トルコ語(Turkish)

日本人には中東地域になじみがないのと同様、トルコもまた遠い国だ。しかし言語に目を向けると、トルコ語はラテン文字(正確にはラテン文字をベースにしたトルコ文字)で表記されるので、英語を見なれているわれわれには見た目の抵抗感はぐっとちいさくなる。これはムスタファ・ケマルがトルコを西洋世界に組み入れるべく改革を推し進めた結果のひとつだが、それにともないアラビア文字やイスラム文化とのあいだにはとりかえしのつかない断絶がもたらされることになった。オルハン・パムクが文学上の主題としているのもこのトルコの西洋化の問題である。

歴史的な経緯(19世紀末から20世紀初頭のエルトゥールル号事件や日露戦争)から、アジア諸国のなかでは日本に親しみをおぼえるトルコ人がわりあい多いらしい。ただ、実態は「きらいではない」ということだろうし、文化的にもそりゃ西洋のほうがはるかに親しみがあるに決まっている。とりわけドイツでは、移民でもっとも多いのはトルコ系だし、ケバブサンドもじつはトルコではなくドイツ発祥のファストフードである。

トルコの食べ物つながりでいくと、僕はNHKの朝ドラ『あまちゃん』が大好きなのだが(あのころののん(能年玲奈)のピュアな輝きはひかえめにいって最高である)、あのなかで片桐はいり演じるあんべちゃんの「まめぶ」(まめぶ汁。くるみや黒砂糖をつつんだ団子がはいった汁物で、岩手県久慈市の郷土料理)とトルコの国民食「ケバブ」が激突するシーンがとにかく笑いをさそう。じっさい、ドイツほどではないものの、東京ではトルコ人がやっている安価なケバブ屋がいたるところにある。まめぶは……東京でも味わえるのかどうかわからないけども。それからターキッシュ・ディライト(Turkish delight)。直訳すれば「トルコ人の喜び」、本国ではロクムと呼ばれているお菓子だが、学生時代に『ナルニア国ものがたり』を原書で読んでいたらでてきた。こちらは19世紀にヨーロッパにもちこまれ、イギリスにかぎらず広く親しまれている。

トルコ語については僕じしん知っていることが少なく、食べ物でお茶をにごすことになってしまった。でも考えてみれば和洋中に加えてたいていのエスニック料理をカバーしている日本であっても、中東の食べ物はほとんど未開の領域にとどまっている。ケバブはましなほうかもしれない。いつかイスタンブールをおとずれてアヤ・ソフィアを見物したり、本物のトルコ料理に舌鼓を打ったりしてみたいものだ。

アラビア語(Arabic)

アラブ世界でもっとも広く話されている言語。フスハー(標準的な共通語)とアーンミーヤ(国や地域ごとにことなる方言)の区別があり、非アラビア語ネイティヴはまずフスハーを学ぶことになるが、会話をするとなると現地のアーンミーヤも習得しなければならない。ヨーロッパでたとえると、正式な読み書きにはラテン語を用いるが、日常会話ではそれぞれの土地に根ざしたロマンス諸語を話すというようなことであり、これだけでアラビア語を独学するというのは並大抵の努力ではすまないことがよくわかる。右から左に書くのはまあ慣れの問題だと思うけれど(一転して左利きの人が書きやすくなる)、いまの僕にはアラビア文字は点と線からなる記号にしか見えないし、フスハーのVSO、つまり動詞・主語・目的語という語順がまた大変そうだなという気がしている。

世界の国や地域のなかで、日本でいちばん理解が進んでいないのが中東だと思う。平均的な日本人は中東というとすぐに紛争の絶えない危険地帯であるとか、イスラム原理主義のテロリストや過激派組織といったものを連想するだろう。9.11同時多発テロからもうすぐ四半世紀が経とうとしているが、これは平均的なアメリカ人にとってもおそらく同じことだろうと思う。ブッシュ大統領が2002年の一般教書演説のなかでイランやイラクを「悪の枢軸」(axis of evil)と表現し、対テロ戦争に突き進んでいったあの頃から中東に対する意識や理解は先へ進んではいない。じっさい、紛争や政情不安が原因で中東からの難民や移民が跡をたたない状況であることを考えると、現地のひとびとも多かれ少なかれわれわれのステレオタイプ的なイメージのなかで生きているのかもしれない。とはいえ、フィンランド語のところで書いたのと同様、まずはやっぱりアラビア語をやってみることがアラブ世界を理解する鍵になるだろうと思う。

日本におけるイスラム文化研究の第一人者にして最大の人物といえば井筒俊彦だ。日本ではじめてクルアーンを翻訳し、30ほどの言語を操ることができたという天才である。ただし、彼は思想研究の泰斗であって、文学者ではない。『千夜一夜物語』(アラビアン・ナイト)が重訳ではなく原典訳されたのはいつだろうかと調べてみたら、前嶋信次と池田修のふたりが1966年から92年にかけて完成させたということのようだ。いずれも偉業というほかない。

ヘブライ語(Hebrew)

僕はユダヤ人の文学に興味がある。べつにふだんユダヤ人にこだわって読んでいるわけではないが、ポール・オースター、パトリック・モディアノ、フランツ・カフカなど、あるとき自分の感性にしっくりくる作家はユダヤ人が多いということに気づいて、言語にしばられないユダヤ人の文学というものを意識しはじめた。

厳密な意味でいくと、ユダヤ文学というのはイディッシュ語やヘブライ語で書かれたものをいうのだろうけど、だからといってヴィクトール・フランクルの『夜と霧』やプリーモ・レーヴィの『これが人間か』といったホロコースト文学がユダヤ文学でないということはありえない。ユダヤ人には長いあいだ祖国がなかった(そしていまも実質的にはないようなものである)ことを考えると、ユダヤ文学というのはそれが書かれる言語というよりも、作者がユダヤ人としての出自やアイデンティティにどれほどこだわっているかというところで決まってくるような気がする。それゆえに、おなじ英語で書いていても、バーナード・マラマッドのようにユダヤ性を切っても切り離せない作家もいれば、ポール・オースターのようにあまりユダヤ性とはむすびつけて論じられない作家もいるということになる。

しかし旧約聖書が存在しなければいまにいたるまでユダヤ教もユダヤ人も存在しなかっただろうし、その旧約聖書がヘブライ語で書かれている以上、この言語はユダヤ人にはどうやってもついてまわる言語である。ヘブライ語は口語としてはとうの昔に滅びてしまっていたが、19世紀後半のシオニズムの勃興とともに再建され、1948年に建国されたイスラエルの公用語となった。カフカはユダヤ人としてのアイデンティティに目覚めたのか、ヘブライ語を独学し、本気でパレスチナ移住を検討していたそうだが、もし彼がもっと長生きしていたらどうなっていただろうか。

ヘブライ語で思いつく日本人は村岡崇光。ヘブライ語・ギリシア語を修めて、オランダのライデン大学で教鞭をとっていた聖書学者である(授業はもちろんオランダ語で行なっていたそうだ)。翻訳の分野だと母袋夏生さん。一連のウーリー・オルレブ作品のほか、エトガル・ケレットといった新世代のイスラエル文学を手がけておられる。エッセイ集『ヘブライ文学散歩』はヘブライ語文学のガイドブックとして最適だし、『砂漠の林檎 イスラエル短篇傑作選』は現代イスラエル文学のアンソロジーとしてまさにうってつけである。