ツェリン・ヤンキー『花と夢』(星泉訳、春秋社、2024年)
最近、自分のなかでアジアや中近東に対する関心がにわかに高まりつつある。先日、オルハン・パムクの『赤い髪の女』(2019)を読了した。ソフォクレスの『オイディプス王』(=ギリシア(西洋)の父殺しの物語)と『王書』のロスタムとソフラーブの物語(=ペルシア(東洋)の息子殺しのエピソード)を下敷きにした作品で、パムクは「父と息子」や「近代化にともなう神話の喪失」といったテーマをこんなふうに技巧的にえがく作家なんだなと勉強になった。トルコの西洋化の問題というのは、開国してからひたすら欧米列強に追いつけ追いこせの精神でやってきたわれわれ日本人がかかえる問題とも相通じるものがあると思う。
ところでパムクといえば基本的に大長編作家であり、『わたしの名は赤』(2012)あたりを読まなければ読んだとはいえない作家かもしれないが(『薔薇の名前』(1990)を読まずしてウンベルト・エーコを読んだとはいえないのに似ている)、和久井路子氏の先行する翻訳が宮下遼氏のものとほとんど取ってかわられているのはどういう事情によるものなのか気になる。そんなに悪訳なんだろうか。僕には判断するすべがないが。
僕は高校時代に世界史を選択して履修していたけど、勉強しながらずっと違和感のようなものを感じていた。その違和感のようなものがなんだったのかあとからふりかえってみると、世界史といいながら、けっきょくは西洋的な視点から世界の主要な国々が発展していくさまを概観して、それで世界史と銘打っていることの奇妙さだったような気がする(「世界」には日本も含まれているのにどうして日本が出てこない?という本質的なつっこみどころもある)。世界なるものを見わたしてそれを記述していくためには、どうしても上からみおろす視点、つまり西洋人の視点から国や文化をみていくことになるのは当然であり、それによって世界史の発展にさして重要でないと判断される事項はどんどんカットされていくことになる。
アジアに対する関心の高まりのなかで、ツェリン・ヤンキーの『花と夢』(2024)を読んでみた。『赤い髪の女』が僕にとっての初トルコ小説、初パムクであったのとおなじように、この小説が僕にとっての初チベット小説、初ヤンキーである。舞台はチベットのラサ。それぞれいろんな事情から娼婦に身を落とすことになった4人の女性(ドルカル(菜の花)、ヤンゾム(ツツジ)、ゾムキー(ハナゴマ)、シャオリー(プリムラ)。かっこ内はナイトクラブでの源氏名)が互いを支えあっていきていくシスターフッドの物語。「父と息子」とは対照的に、数奇な運命にもてあそばれる女性たちの生がテーマである。訳者あとがきを読むと、作者は語りのうまい祖母に民話やことわざなどを聞かされて育ったとのことなので、それが文章中に頻出する独特かつあざやかな比喩表現に生きているのかもしれないが、話としてはただひたすら重い。4人の女性たちは自分ではなにも悪いことはしていないのに環境の犠牲となり、性産業という搾取構造のなかで傷つき、疲弊していく。
これも訳者あとがきでふれられていることだが、文化的な知識がとぼしいので僕にとっては奇異にみえる描写が多かった。その最たるものが「業(カルマ)」の考え方である。えがかれている女性たちはたとえ男にレイプされようと「自分の業が深いせいだ」といって、純潔を失ったのだからもうどうにでもなれと捨て鉢になって、風俗業界の泥沼にみずからはまっていったりする。この独特の精神構造が僕にはぜんぜんピンとこなかった。仮に登場人物のひとりだけがそう考えているのならその人物だけの価値観かもしれないが、あたりまえのごとく複数人がおなじ考え方をしているのである。
もちろん、これはツェリン・ヤンキーという個人の創作なので、みずからの運命にしたがうという考え方がすなわち一般的なチベット人のメンタリティであると思い込むのはまずいことだろう。2017年の#MeToo運動が記憶に新しいが、この運動によって性暴力を受けていて泣き寝入りするのはダメ、声をあげることこそが正義なのだという価値観がアメリカから世界じゅうに波及していった。なにも性暴力にかぎったことではないが、われわれ日本人もまた被害をこうむったのなら声をあげてそのことを訴えることがよしとされる社会で生きている。そのことに対して僕はとくに意見というものを持ち合わせてはいないが、文芸好きな人間の常として、自分たちとは異なる価値観のもとになりたっている文化圏のすぐれた物語を読むと、いいとか悪いといった価値判断はべつにして、新鮮な発見とおどろきに打たれる思いがする。
もとはといえば、2022年に『「その他の外国文学」の翻訳者』というエッセイ集が白水社から出て、そのなかに含まれていた星泉さんのエッセイを読んでなんとなくチベット文学に興味を抱いたのだった。トルコ語とおなじく僕はチベット語も理解不能だが、すくなくとも『花と夢』は日本語が非常にこなれていてとても読みやすかった。原語がわからない人間からすると、翻訳というのは結果的にできあがった訳文がすべてなのだから、それがいいものであればまた次を手にとってみたいという気持ちになる。そのようないい連鎖反応を僕はもとめている。チベット文学となると翻訳者の母数がけたちがいに少ないから、星さんのような仕事はとても貴重なものだ。
近年、韓国や台湾といったアジア圏の文学が国内でさかんに紹介されるようになってきているが、これは明らかにいい傾向である。たぶん僕たちよりも上の世代の多くの人たちは韓国文学から学ぶことなんてあるのか?という態度でいたと思うのだけど、昨年ハン・ガンがノーベル文学賞にも選ばれ、日本国内でも2010年代半ばくらいから徐々に盛りあがりを見せてきた韓国文学はいま非常におもしろいところにきている。これにはふだん本なんかぜんぜん読まないけど、韓流ドラマやK-POPは大好きみたいなミーハーな層の人たちの感性もおおいにかかわっていると思う。なんにせよ、韓国人気におされてほかのアジア諸国の文芸がすこし前に出やすい環境になってきているのではないか。
考えてみれば、日本の世界史という科目が非常にいびつなものであるのに負けないくらい、僕じしんの文学観というものも奇妙な偏りをしめしているように思う。つまり、アジアといえば日本文学しか読まない、西洋といえばアメリカやフランス、ドイツといった大国がほとんどという具合である。幸いにして日本は翻訳大国なのだから、興味さえあればなんでも日本語で読めてしまうのにごく限られた範囲しか読まない。もちろん、めくらめっぽうに範囲を広げていけばそれでいいというものでもないが、最近の僕は非西洋圏の文学がおもしろいと感じているし、それらを読んでいくことで自分のなかの西洋中心主義をすこし解体していく必要もあるとかんじている。








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