語学のたのしみ①
*サムネイル画像はAIでテキトーに作成したもの。
僕は洋楽や文学が好きだが、語学にもそれなりに関心を抱いている。それで勉強してみたい言語というのはつねに片手ではおさまらないくらい存在するのだけれど、つぎのような理由からそう簡単にはいかない。ひとつめにして最大の理由は、おのれの能力のとぼしさである。英語ですら運用能力は心許ないというのに、あれがいい、これがいいといろんな言語にきまぐれに手を出してみたところで、おぼえたそばから忘れていき、あるいは頭のなかでごちゃごちゃになって謎の言語が生成されていき、気がつけばどの言語もまともに習得できなかったという悲しいことになりかねない。
語学にかぎったことではないが、しょせん小さな器になみなみと水を注いでいけば次からつぎにあふれ出していきなにも残りはしないのだ。そして、器のおおきさというものは生まれつき決まっているので、嘆いてみてもどうにもならない。ふたつめの理由は、人生の時間というのは有限であって、語学にばかり貴重なエネルギーをついやしてはいられないということである。ある意味これは、人生においてなにごとも成しとげたくない人間が口にする常套句でもあるだろう。
われながらこれではネガティヴすぎる。しかし考えてみれば、ことばというものはその言語の母語話者としてこの世に生をうけないかぎり、完璧なものにはならないのだ。いや、正確にいえば、母語話者であってもその言語を意識しておぼえようと、上手に使いこなそうと努力しなければたいしたものにはならない。そうであれば、それを仕事で使うとかでないかぎりは、外国語というものはへたに高いレベルを目指すのではなく、とりあえずはやってみるというようなアマチュアの姿勢こそがだいじになってくるのではないかと思う。
言語を「習得した」といえる状態の目安がネイティヴレベルであることは否定しないが、そもそもそのレベルじたいが人によってことなるものだし、僕のように好きな作家の本を原語で読みたいとか、好きな歌を聞き取れるようになりたいといった動機であれば、読めはするけど書くのは苦手、聞き取れはするけど話すのは苦手というふうに、多少は能力にばらつきがあってもかまいはしないのである。
幼いころ、僕はおばあちゃん子で、「星は?」「スター!」とか、「象は?」「エレファント!」のように、川べりなどを歩きながらこれは英語でなんというでしょうゲームをやった思い出がある。祖母はべつに英語ができるわけではなく発音も完全にカタカナだったが、孫である僕に英語を教えたかったようで、ふりかえってみれば、これが僕にとって外国語に興味をもつようになったきっかけのひとつだった気がする。このゲームによって僕がおぼえたのはごく簡単なカタカナ英語だけ(それも名詞のみ)だったが、そのことじたいはべつに問題ではなく、日本語ではないことばの耳慣れない音の響きや口に出したときの感じが楽しい、心地よいと思える、そういう感性が育まれたことに意味があったのだと思う。
外国語学習に向いている人というのは、ある意味では大人になってもこうした幼児じみた感性を保持している人のことをいうのではないか。だいじなのは、楽しいという気持ちや好奇心である。たぶん僕は、大人として生きるうちにすこしずつ失われていくそれらをとりもどしたくて「猫は?」「カッツェ!」とか、「本は?」「クニーガ!」とか、ひとりで続けているのかもしれない(そんな男が川べりにいたらちょっとした恐怖かもしれないが)。
いま、僕はドイツ語の基礎をおさらいしながら、新しくロシア語と韓国語の学習に取り組んでいる。これ以上なにかを加えることはできないが、ロシア語と韓国語はとりあえず文字は読めるようになったし、基礎をたたき込むのもあと少しで終わるから、そのあとはひたすらトレーニングしていくのみ。そうやっていけば、まずは中学生の英語レベルくらいには到達できるだろう。可能であればいつかスペイン語あるいはイタリア語もやってみたいし、そもそもロマンス語の源であるラテン語もやってみたい。英語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、韓国語を保ったまま、さらにほかに積み重ねていけるものかどうかひじょうに怪しいが、くりかえすように、低いレベルで、自分の楽しみのためにやっていればそれはまあできるんじゃないかという気がする。
自分は、旅行というものはどこに行こうかなとあれこれ考えているときがめっぽう楽しく、じっさいにそこに行ってみると感動する一方で大変さも身にしみて感じるたちである。世の中、そういう人は多いんじゃないかという気がするが、ホンモノの旅行好きたちはその大変さや不便さをものともしない。語学もそれに似て、ホンモノの語学好きは「できるかな?」と躊躇するのではなく、興味をもったらもう学習書を探しに書店に出かけているのではないかと思う。慎重であるだけでなく、フットワークが重いという意味でも、僕は甘ちゃんな学習者だ。優先順位をつけて、ある程度の計画を練りながら、じっくりとことばを勉強していく。
でもそうすると、興味をもちつつも一生やることはないまま終わる言語だらけになってしまうだろう。読みたいのに読めない本、聞きたいのに聞けない音楽、そういうもののカテゴリーに勉強したいのに勉強できない言語が加わる。それでは残念なので、ここでは僕が興味をもっている言語について、現時点で知っていることや印象などをリストアップしてみた。
Contents
韓国語(Korean)
現在学習中。韓国語といえば、日本語ネイティヴにはわりとやさしいという話を耳にすることが多いが、それはまちがいではないものの、ちょっとミスリーディングだと思う。たしかに名詞に格助詞をおぎなうことで「てにをは」を示す点や、漢語に由来する表現などは日本人にはかなり理解しやすい。韓国語の単語を覚えるときは、漢字表記をいっしょに確認する習慣をつけるとよさそうだ。ただし、日本と韓国は地理的には近いといっても、語族的にはまったく関係がない。語彙が共通するというのは、たとえばドイツ語とフランス語のように語派がことなる言語が共通してラテン語から表現をとりいれているという状況とさほど変わらず、日常語のレベルだと日本語と韓国語はほぼ共通点はないといっていいだろう。
ハングルそのものはその気になれば3日で覚えられる。問題は音だ。英語とおなじく子音+母音+子音の閉音節を基本としているから発音にはとくに注意しないといけない。「야」(ヤ)とか「유」(ユ)といった音を頻出母音にもっているところは、ちょっとロシア語っぽい気がする。同時にやっているせいで、キリル文字の「ю」(ユー)がどうにもハングルのようにみえてこまる(笑)。清音と濁音の区別があいまいであるというのもけっこう衝撃的だ。それから、パッチムがつぎの文字の母音とむすびついて発音が変化するところはフランス語に似ている気がする。どうも僕はこの音声変化に苦手意識があるが、たぶん根本原因は絶対的な学習量の不足にあると思うので、解決策は地道にやっていくことだけだろう。
ハン・ガンを原書で読んでみたいが、それにはまだ途方もない道のりが待ちうけているようだ。またハン・ガンといえば翻訳者の斎藤真理子さんだが、経歴をみると彼女は50代なかばにして翻訳家デビューを果たして以降、非常に充実した仕事をされている。ものすごい大器晩成ぶりだ。
中国語(Chinese)
英語ネイティヴがフランス語をやるのと同じく、われわれ日本人は漢字がわかるので中国語はラクなはずだ。おそらく韓国語をやるよりもラクだろう。近代化以前の日本では、外国といえばすなわち中国のことであり、知識人は漢文の素養をもってして知識人と呼ばれたものだ。歴史的に、日本には中国語を解するための技法が山のように継承されており、これは独学者にはおおきいこと。
しかしながら、僕は基本的に漢字というものがあまり好きではない。漢字だらけの日本語をみるとおもわず「うっ」と圧迫感をおぼえるたちなので、おいそれと中国語をやってみる気にはなれない。そもそも、日本語の表記にもちいる文字はすべておなじ性質をもっているわけではないだろう。ひらがなやカタカナは純粋に表音文字であり、その点ではローマ字やハングルとおなじだ。一方、漢字は表音+表意なのでつめこまれている情報量がまるでちがう。漢字をつかわなければ日本語は変にふにゃふにゃした腰抜けみたいになってしまうが、漢字オンリーだとあまりにもごつい。「確固不抜」とか「鎧袖一触」とか意味からしても字面からしてもかっこいいけど、万事こんな調子だときつい。これは中国人には理解しえない感覚だろう。
しかし、中国語には四声があるとはいえ、漢字ひと文字につき割り当てられる発音は基本的にひとつということなので、これはかなりありがたい。日本語であれば「生」という字をとってみても、「生きる」(い)、「生活」(せい)、「生じる」(しょう)、「生憎」(あい)と読み方が表現ごとにさまざまに変化していき、そのすべてを覚えなくてはならないという煩雑さがあるのだから。逆にこれは日本語を学ぶ中国人からしたらけっこう大変なんじゃないか。
中国文学に対する僕の理解というものは、悲しいことに国語で習った魯迅の「故郷」でとまっている。一方で、どうも日本は国レベルで中国の文芸に対する反応がにぶいところがあるのではないかと思う。もちろん漢文の授業であつかわれるような古典はそのかぎりではないが、本国における文化的な弾圧の影響もあって、中国初の現代小説というものの姿はなかなかみえてこない。むしろ、純粋な中国人でありながら英語で執筆して全米図書賞までとったハ・ジンとか、イーユン・リーとか、『紙の動物園』のケン・リュウ(劉慈欣の『三体』の英訳も手がけている)のように、英語で書く中国系作家の存在感のほうがずっとおおきいように思える。このまま現代中国文学はアメリカ文学のサブジャンルに回収されていくようになるのだろうか?
ドイツ語(German)
現在学習中。ドイツ語はコロナ禍に独学をはじめ、ひととおり基礎をやったあと長く放っておいたのだが、いまになって叩きなおす気になった。ゲルマン語のなかでは英語についで優先度が高い。英語は骨格がゲルマン語でありながら肉づきはフランス語であるという、ある意味で言語的なキメラ、ロマンス語化されたゲルマン語なので、じつは英語を知っていてもそれほどドイツ語の学習はラクにはならない。
序盤にたちはだかる冠詞類や形容詞の格変化表、動詞の活用のまえにあえなく撃沈する独学者はけっして少なくないのではないか。ドイツ語専攻の学生であればやる気があるのでなんなく乗り越えられるはずだが、中途半端な学習者は「ドイツ語はむずかしい」という負のイメージを植えつけられたうえでいきなり退場をしいられる。おそらくこれは、最初に英語を習うせいだろう。つまり、英語ほど入り口が簡単でとっつきやすい言語はほかになく、そのせいで最初にたちはだかる格変化や活用を必要以上に難物とかんじてしまうということ。英語が例外中の例外であるだけで、西洋語は基本的に複雑に格変化・活用していくものなのだととらえなくてはいけない。まずは最初に出てくる格変化・活用は死ぬ気でおぼえないと話にならない(注)。
(注)ただし、このあたりは参考書のつくり方にも問題があるような気がする。1格から4格を順に表記するのではなく、1、4、2、3の順にしたほうが理解しやすい。1格(主格)と4格(対格)は、たとえば定冠詞をみると男性形以外はすべておなじ形をしている。つまり、1格と4格はほかの格に比べるとずば抜けて使用頻度が高いので同形になっているということなのではないか。僕は自分でこのことに気づいたが、ただひとことそういうことが参考書に書いてあれば親切なのになと思った。
さて、がんばって格変化と動詞の活用を乗り越えると、こんどは語順の問題が立ちはだかる。英語は思考停止でまず主語を立てて、つぎに動詞をおけばいいが、ドイツ語はそんな理屈ではできていない。平叙文では(定)動詞を先頭から2番目に置くという規則があるため(V2語順)、ぱっとみたところでは「なんだ、英語といっしょじゃん!」と早合点してしまう。しかし、副文(英語でいう従属節)中の(定)動詞はいちばん最後の部分におかないといけないというというところ、助動詞につづく不定詞や受動態をつくる際の過去分詞も最後にくるというところで混乱が生じる。ドイツ語はそもそもTennis spielen(テニスをする)とか、heute Abend ins Kino gehen(きょうの夕方映画にいく)みたいに、動詞がいちばん最後にくる意味のまとまりがあって、文の種類に応じてその動詞の位置を動かすという発想でできている。英語に慣れきっているせいで、日本語の発想で西洋語の語順をとらえるのが僕にはけっこうむずかしく、気を抜いているとついまちがえてしまう。
けれど、慣れてくるとドイツ語の端正さというのか、あまりにもかちっとしているところが気持ちいいと思えてくる。個人的な想像にすぎないが、ドイツ語がしっくりくる人というのは、秩序だったものへの志向性が強い傾向があるのではないか。カントを育んだのがこのような性格の言語であるというのはすごく腑に落ちる。
ドイツ語にゆかりのある日本人文学者をあげていくと、まずは森鴎外。自身の創作だけでなく、アンデルセンの『即興詩人』(ドイツ語訳からの重訳)に代表されるように、翻訳の分野でも顕著な功績をあげている。英語の達人でありながら、あまり翻訳には携わらなかった夏目漱石とは対照的である。『ヰタ・セクスアリス』に出てくる語源をおさえた単語の覚え方についての記述は語学全般にいえることであり、ためになる。それから『ビルマの竪琴』の竹山道雄、古井由吉。とくに古井の小説群は、いつかきちんと読む必要があると考えている。翻訳の分野だと高橋健二、高橋義孝のダブル高橋先生、松永美穂さんあたり。
イディッシュ語(Yiddish)
世間的にはイディッシュ語ってなに?という人が多いと思うが、これはドイツ語をベースとするユダヤ人の言語。僕はバーナード・マラマッドの小説を読んでいてはじめてこの言語のことを知った。純粋なポーランド人でありながら英語で創作したイェジー・コシンスキとは対照的に、おなじポーランド系ユダヤ人のアイザック・バシェヴィス・シンガーはこのイディッシュ語で創作したことで有名。日本だと大崎ふみ子さんが翻訳紹介に努めておられて、大作『モスカット一族』も昨年刊行された。ただし英語からの重訳なので、イディッシュ語からの直接訳をもとめるのであれば、西成彦氏による『不浄の血―アイザック・バシェヴィス・シンガー傑作選』がある。
日本におけるイディッシュ語研究といえば上田和夫氏。日本語で読める教材はおそらくほぼすべてが彼の手によるもの。ということで、本格的にイディッシュ語を学ぼうとすれば英語やドイツ語で書かれた教材も視野にいれなくてはならない(基本的にマイナー言語はすべてそのようなものだ)。レオ・ロステンのThe: New Joys of Yiddish-Completely Updatedは英語の小説を読んでいて出てくるイディッシュ語をさっと調べたりするぶんには手軽でつかいやすい。
オランダ語(Dutch)
チューリップの国、オランダ。球根の生産量は世界シェア9割を占めているそうで、日本でもそのへんでみられるチューリップはオランダから来たものとみてまずまちがいない。いうまでもなく日本とオランダの関係は深い。鎖国していたときに西洋諸国で唯一貿易関係にあったのがオランダである。その関係で、オランダのライデン大学に世界ではじめて日本学科が設置された。おもしろいところだと、「どんたく」はオランダ語で「日曜日」を意味するzondagからきているのだという。ここから「半ドン」という表現も生まれた。
ドイツ語だと名詞の性別は男性・女性・中性の3種類があるが、興味深いことにオランダ語は通性(男性形と女性形が統合してひとつになったもの)と中性の2種類である。デンマーク語やスウェーデン語なんかもそうらしい。ゲルマン語といえばアイスランド語がとにかく古いかたちを保っている(古代からほとんど変化していない)ことで有名だが、名詞の性別を3種類保持しているという意味ではドイツ語は保守的であるといっていいのだろうか。いまやるとドイツ語とごちゃごちゃになりそうなのでやらないが(同系言語を同時にやるのは避けたほうがいい)、オランダ語はぜひいつか勉強してみたいと考えている。
オランダ語で書かれた書物として日本で、というか世界的にもっとも有名なのは『アンネの日記』だろう。映画『きっと、星のせいじゃない。』(The Fault in Our Stars)でアンネ・フランクの家をおとずれるシーンが出てきたときは、すくなくとも日本とアメリカはそのようなイメージを共有しているんだなと思った。そのほか、オランダ語というと歴史で習う杉田玄白の『解体新書』の印象がつよい。これはじっさいはドイツ人医師が書いた医学書のオランダ語訳(通称『ターヘル・アナトミア』)を底本としているということだが、辞書もろくにない時代に翻訳されたことを思うとまさに歴史的偉業である。
ノルウェー語(Norwegian)
ノルウェーといえば、ビートルズの “Norwegian Wood (This Bird Has Flown)"はけっきょく「ノルウェーの材木(でできた家具)」なのか「ノルウェーの森」なのかという昔からの論争があるが、ただひとついえることは「ノルウェイ」ではないということである。英語名のNorwayをより忠実に訳すと「ノーウェイ」のようになるだろう。しかしこれではNo Way(!)と誤解する人が出てきそうなので「ノルウェイ」とするのも致し方ないということだろう(こういう細かい話をネチネチとしていると人から嫌われることうけあいです)。
このどっちつかずという状況はノルウェー語じたいが抱え込んでいるものでもあって、ノルウェー語には大別すると「ブークモール」(bokmål)と「ニーノシュク」(nynorsk)というふたつの公用語がある。前者は支配国であったデンマークの影響を受けていて、話者数も圧倒的に多い標準語。アイスランド語に似ているともいわれる後者は方言がもとになっていて、話者数もごく限られているが、立派な公用語である。そしてノルウェーをブークモールで表記するとNorge、ニーノシュクで表記するとNoregになる。なんだこれは? スペルミスか?と思ってしまうが、どちらも正しい。さきほどの"Norwegian Wood"論争もそうだが、世の中にはどちらか一方が正しくて、もう一方はまちがっているなどと簡単には決められないことがあるのだ。
なお2023年にノーベル文学賞を受賞したヨン・フォッセはニーノシュクを使って作品を書いている。イプセンの『人形の家』といい、ノルウェーは戯曲が盛んなのだろうか。小説ではクヌート・ハムスンの『飢え』(ロバート・ブライ訳)をポール・オースターが影響を受けた本に挙げていた。
アイスランド語(Icelandic)
ビョーク、ムーム、シガー・ロス。最近ではここにレトロブームに乗って登場したジャズシンガー、レイヴェイが加わった。
ゲルマン語のなかでもアイスランド語はとにかく古風な色あいが強いといわれているが、文字にだけ目をむけても発音記号としかおもえない「ð」(エズ)とか、ルーン文字に由来する「þ」(ソーン)など十分にクセつよなのがみてとれる。文字体系が奇々怪々であるという点ではわれらが日本語も同じだが、やはり島国で外部からの影響がないとガラパゴス的な発達を遂げやすいのだろうか。しかし、複雑であればあるほど燃えてくるのが語学好きというもの。僕は英語には興味があるし、その英語がゲルマン語である以上、もっともゲルマン語らしいというアイスランド語に惹かれるのも無理はないといえるだろう。
でも地理的にイギリスに近いせいで、アイスランド人たちは相手が外国人であるとわかると即座に英語に切り替えてくるそうである。これはありがたいことである反面、せっかくがんばってアイスランド語を勉強してきた訪問者にはいささか味気なくもあるだろう。最近、YouTubeで日本人がとつぜん相手の言語(多くはマイナー言語)で話しはじめたらどういうリアクションがかえってくるかというビデオをみかけるが、それこそ西洋人ですら容易に扱えないこの言語を日本人が話せたらきっと面白いはずだ。ドイツ語でへとへとになっているいまはとても無理だが、いつかやれたらいいなと思う。
*長くなったので今回はここまで。次回につづく。







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