ジェイン・オースティン『高慢と偏見』(阿部知二訳、河出書房新社、2006年)

2025年12月28日

このところ自分のなかでは古典がちょっとしたブームになっていて、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』(Pride and Prejudice, 1813)をいまさらのごとく読んでみた。先日再読したチェーホフもそうだが、古典というのは自分にあった訳を選ぶというのがことのほか重要になってくる。2025年12月現在で手にとりやすいのはちくま文庫の中野康司訳(2003)、新潮文庫の小山太一訳(2014)、中公文庫の大島一彦訳(2017)といったところだろう。とにかく読みやすさを重視するなら定評のある中野訳、原文に忠実かつ、より現代的な日本語をもとめるのであれば中野好夫訳の後継となる小山訳、最新の研究成果が反映されているという意味では大島訳と、それぞれに個性がある(コスト面からいうと、小山訳と大島訳は一冊にまとまっている点もグッド)。

おもだった選択肢としてはほかに光文社古典新訳文庫の小尾芙佐訳(2011)、岩波文庫の富田彬訳(1994)などがあるなかで、今回僕が読んだのは河出文庫の阿部知二訳(2006)[旧版は1996]である。底本となっているのは1963年に同社から出た世界文学全集のものなので、すでに60年以上も前の古い訳だ。しかし、裁判沙汰にもなって有名な『チャタレイ夫人の恋人』(Lady Chatterley’s Lover, 1928)の訳者、伊藤整とおなじく阿部じしんも小説家だったということもあり、訳文の文体には作品に似つかわしい品格がただよっているように思う。ところどころ意味がとりづらい箇所、誤訳くさいところがみられるとはいえ、日本における英文学の受容という観点からみればまずまちがいなく歴史にのこる訳業といえるだろう。いずれにせよ、オースティンのような古典はいろいろな訳を読みくらべるという楽しみももたらしてくれるわけで、いつか再読する気になったら、こんどは別の訳を手にとってみたいと思っている。

じつをいうと、僕は長いあいだジェイン・オースティンがわからないというコンプレックスをいだいていた。ずいぶん昔に、『ノーサンガー・アビー』(Northanger Abbeyはおもしろく読んだおぼえがあるけれど、六大長篇のうち、すくなくとも『高慢と偏見』を読まなければオースティンを読んだことにはならないのだ。しかしまとまった時間ができるたびに、こんどこそはと思って挑戦するものの、ちょっと読んではつまらなくなって挫折する、再挑戦しては挫折するということをくり返してきた。まるで作業の途中でかならず不具合がおきてしまい、いつまでも更新が完了しないパソコンみたいなありさまだったのだが、今回、ようやく読了するに至った。ここでは、なぜ『高慢と偏見』は自分にとってこれほど困難な書物であったのかということと、通読してみて感じたこと、考えたことを備忘録としてまとめておきたい。

まずこの小説のむずかしさについて。海外文学に関心がある人たちにはわかると思うのだけれど、同じ英語圏といってもイギリス文学とアメリカ文学ではまったく毛色がことなる。前者はがちがちの階級社会であって、物語展開よりも人物造形や心理描写の巧みさで読ませる傾向がつよい一方で、後者は個人主義に立脚し、登場人物たちの性格づけや内面描写よりも明確なプロットを重視する傾向がつよいというちがいがある(話が広がりすぎるので、ここでは広義のイギリス文学に含まれるであろうカナダ文学やポストコロニアル文学はのぞいて考えることにする)。もうこれは個人的な嗜好でしかないのだが、僕は圧倒的にアメリカ文学のほうが好きな人間だ。イギリス文学がきらいというのではけっしてないが、読んだ本の数というので考えてみれば、たぶんイギリス文学はぜんぜん読んでいない。

思うに、『高慢と偏見』はイギリス文学のなかでもきわだってイギリス文学的な特徴が濃縮されている作品といっていいのではないか。「独身の男性で財産にもめぐまれているというのであれば、どうしても妻がなければならぬ、というのは、世のすべてがみとめる真理である」(p7)という有名な一文で幕をあける、徹底的に平凡であると同時に細密画のような心理描写を内蔵していることで名高いこの恋愛物語は、簡単にいえば「階級というシステムの維持」についての小説である。ようはきわめて狭い世界の狭いことがらを何百ページにもわたって展開しているということで、そこには小説的な広がりというものがまったく欠けている。おそらくオースティンにとって小説的な広がりなどはそもそもどうでもいいものだったのかもしれないが。

ジャンルとしてのラブコメ(ラブコメディ)というものは英語でいうロマコメ(romantic comedy)とはちがうものだそうだが、おおむね明るい作風で恋愛を扱い、ハッピーエンドで終わるという基本パターンは共通している。そこでは、たとえば結婚制度そのものへの疑問といったものが描かれる余地はない。結婚というのはゴールであって、詰将棋のように、登場人物たちをいかにして動かし結婚という最終地点までもっていくかに力点がおかれる。紆余曲折あって最後にふたりは結ばれるという前提そのものを問題としていたら、たぶんそれはラブコメやロマコメではなくそのヴァリエーション(変奏)、あるいはなにか別のジャンルにくくられる作品になるのではないかと思う。そのジャンルを成立させるうえで多かれ少なかれおさえなくてはならない決まりごとが存在するという意味では、たとえば推理小説やミステリ、SFやファンタジーなんかでもおなじことがいえるだろう。

これをいえば身もふたもないのだが、結婚がゴールであるというオースティン文学の前提がまず僕にとってはあまりしっくりこないのだ。そもそも現代の日本においては、婚姻数じたいが減少しつづけているわけだし、結婚がすなわちハッピーエンドであるというのはいかにも前時代的な感覚というか、すくなくともいまの若者世代にとって圧倒的多数を占める認識であるとはとうていいえないところまできているのではないか。個人的に、20世紀最高の作家はフランツ・カフカであると思っているが、というのはあらゆる制度や規範の前提をくつがえすようなあの独特の小説世界を最初にたちあげた人間がカフカだからである。彼がいなければ安部公房も村上春樹もずいぶんちがった小説を書くことになったのではないかと想像する。

そういえば、大学時代に19世紀のイギリス文学をご専門とするある女性教員の授業を受けたことがあるが、その先生が村上春樹の『ノルウェイの森』がどうしてもわからないということをぽろっと口にされたのが妙に印象に残っている。いま思えば、それはそうだろうなという気がする。なぜなら村上春樹の書くものはどんなにリアリズムにみえようと、それはリアリズムの皮をかぶったファンタジーでしかなく、ゆえにそのコアにはわれわれが生きているこの世界とはなんなのかという、前提そのものを問題とする意識が存在しているのだから。これはまさしくカフカ的な感覚である。オースティンの対極に位置するのが村上であるなどといいたいわけではないが、すくなくともオースティンを読むにさいしては、結婚という制度、あるいは貴族という身分じたいにある種のあこがれというか、幻想というか、そういうものを多少なりとも感覚としてもっていなければ、うまく作品に没入できないのではないかという気がする。

こんなふうに考えてみると、自分がなぜオースティンを読むにさいしてこれほど困難をおぼえたのかが理解できるようになった。なにせ僕は結婚というのは愛とは無関係のたんなる社会的な制度でしかなく、それは互いに好意をいだいている者どうしがたどりつくゴールにはなりえないと思っているのだ(スタートにはなりうるかもしれないが)。それに文学に目覚めたのは、村上春樹や安部公房、カフカなどがきっかけだった。もちろん古いイギリス小説であるということもたぶんに関係していそうだが、メアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(Frankenstein, 1818(改訂版は1831))やエミリー・ブロンテの『嵐が丘』(The Wuthering Heights, 1847)なんかは非常におもしろく読んだので、たんに僕はオースティンと相性がよくないということなのだろう。

けれど『高慢と偏見』をじっくり読み進めるうちに、どこが読みどころなのかもだんだんわかるようになってきた。ようするに、紆余曲折あって最後にふたりは結ばれるというところの「紆余曲折」を、この小説は「そこまでやる?」というくらい徹底的に書きこんでいるのである。それも普通の小説であれば書かずに読者に想像させるような登場人物たちのこまかい心の動きでさえも、緻密としかいいようがない筆致でえがいている。登場人物たちの性格づけを綿密におこない、その人物たちの関係性の劇によって人間の内側に生じうるさまざまな感情をうきぼりにすること、この技法にかけてオースティンはもはや人間ばなれした領域にまで達しているのではないかとさえ思う。

ラブコメの定石(恋愛のテクニック?)として、相手にいったん悪い印象を与えておいて、あとでそれをくつがえしたほうがより魅力的に見せることができるというのはけっこう知名度を得ているだろう。ダーシーが「高慢」であるということ、じつはそれはエリザベスの「偏見」であったということを徐々にあきらかにしていき、最後には調和へと帰着させるという展開はその定石を完璧になぞるものであり、その後のラブコメの礎を築くことになっただろうというのは想像にかたくない。たしかに小説的な広がりはないのだが、恋愛というひとつの力学をおのれの終生のテーマであるとさだめ、そこをせまく深くほりさげていったというところにこの作家の偉大さがあるのではないか。

『高慢と偏見』といえば、夏目漱石が激賞し、サマセット・モームが『世界の十大小説』のひとつに選んでいるということもあり、とにかく文豪たちからの評価が高いという変な先入観を植えつけられてしまっていたのだが、じっさい読んでみると笑える箇所もたいへん多い。そもそも主人公であるエリザベスですら、母親から「ジェインの半分もきれいじゃないし、リディアの半分も愛想がよくない」(p10)などとばっさり斬られている始末(笑)。ダーシーがエリザベスに愛を告白する第34章、ダーシーとの仲を引き裂くべくエリザベスのもとにキャスリン・ド・バーグ夫人が乗りこんでくる第56章の火花でも散るんじゃないかというくらいのバチバチさ加減には思わず声を出して笑ってしまった。

ド・バーグ夫人の圧力に屈することなく、「甥ごさまと結婚しても、わたしは自分がその世界から出るのだとは思いません。あのかたは紳士ですし、わたしも紳士の娘です。その点では、平等です」(p463)と毅然として自分のことばで反論するエリザベスに新しい女性像をみいだす読者は、昔もいまも数多いものと思われる。この小説は後半になるにつれてページを繰るスピードがあがっていくたぐいの作品だが、上に引用したことばだけでも今日的な議論の材料が含まれていることは容易に看取できるだろう。

自分はオースティンのことはほぼなにも知らないので見当違いのこともいろいろ書いていそうだが、ともかくどこに読みどころがある作家なのかということだけはつかめたので、『マンスフィールド・パーク』(Mansfield Park, 1814)『エマ』(Emma, 1815)あたりまではいつかがんばって読んでみようと思う。