アントン・チェーホフ『かもめ・ワーニャ伯父さん』(神西清訳、新潮社、1967年)
ひさびさにチェーホフの戯曲を読みなおしてみた。選択肢としていまもっともスタンダードなのは『かもめ』であれば岩波文庫、『ワーニャ伯父さん』であれば光文社古典新訳文庫かもしれないが、いずれもロシア文学者である浦雅春氏による訳業だ。学生時代からお世話になりっぱなしだが、とくに最近の光文社古典新訳文庫の充実したラインナップには、一介の海外文学ファンとしてもおどろくばかり。ロシア文学だけとってみてもレールモントフ『現代の英雄』(2020)、ドストエフスキー『ステパンチコヴォ村とその住人たち』(2022)、アンソロジー『19世紀ロシア奇譚集』(2024)と、すばらしくニッチなところがおさえられている。
しかしいま僕の手許にあるのは学生時代からしたしんでいる新潮社版の神西清訳であるため、それを再度ひらいてみた。日本におけるチェーホフ受容はまず神西氏の存在なくしては考えられないが、その格調高い翻訳はさすがに多少古めかしいところがありはしても、まだぎりぎり通用するものだと思う。いまは詩的な表現よりも平易で明快ないいまわしが好まれる時代だが、こういう香気ただよう文体で文学を読んでいた昔の人たちは大人だなあという気がする。
村上春樹が述べている翻訳の賞味期限というのはまちがいなく存在するもので、文学作品の場合、原文はけっして古びないが、翻訳すなわち解釈は時代にあわせてアップデートされなくてはならない。それは、いくらヴァルター・ギーゼキングのドビュッシーが歴史的名演であるとしても、いまそんな古い録音をベストに挙げるクラシック・ファンはいないだろうというのと同じことだ。しかし、だからといって定評のある翻訳や演奏が新しいものにおきかえられていくのはさびしいことではある。出版社やレーベルも大変だとは思うが、受け手側からするといろいろな選択肢が残されるほうが望ましい。
『かもめ』(Чайка(チャイカ)、1896)も『ワーニャ伯父さん』(Дядя Ваня(ジャジャ・ヴァーニャ)、1897)も人生をじっと耐えぬくこと、すなわち「忍耐の必要性」というメッセージをもった戯曲だが、正直これは、学生時代に読んだときはあんまり響かなかった。しかしいま読むと、10数年前の自分はこれらの戯曲からいったいなにを読み取っていたのかと腹がたつくらい、沁みる。
『かもめ』は女優志望のニーナと作家志望のトレープレフの対比を中心とした劇で、タイトルにもなっている「かもめ」はすなわちニーナのことだ。彼女は作家のトリゴーリンと結婚したあと、生活に追われて夢見ていたような大女優にはなれない。そんな自分を指して、彼女は手紙のなかで「かもめ」という署名を用いる ― 野生のかもめを撃ち落としたトレープレフに向けた手紙のなかで。そのかもめの死骸は剥製にされて第四幕後半に再登場するのだが、トリゴーリンにそれを頼んだおぼえがないところをみると、たんに彼が忘れてしまっているのか、ニーナが注文したのか、あるいはなにかの手ちがいか。そのあたりはあえて解釈の余地が残されているのかもしれないが、自由に飛びまわるものの象徴であるかもめが、生命のない物体にとどめられたということ、これがニーナの運命と重ねられれているのは明白だ。
個人的に興味ぶかかったのは、第二幕にてトリゴーリンが作家という生き物の性質について、えらく饒舌にみずからの心境をニーナに語ってきかせる場面だ。これは『かもめ』執筆当時のチェーホフの精神状態がまさにそのような躁鬱的なものだったのではないかと想像をさそう。どんなに名声を勝ち得ても、けっきょくはドストエフスキーやツルゲーネフには勝てずに終わるという一種の諦念は自虐がいきすぎていて、ツルゲーネフはまだしも、ドストエフスキーの名前をもちだされたら、チェーホフならずとも世界中のほぼすべてのもの書きたちは黙らざるをえなくなってしまうだろう。
それと劇とは関係ないのだが、ナウシカが乗っているあの飛行装置メーヴェ、あれの名前もドイツ語で「かもめ」を意味するMöweからきているんだったなと思い出した。宮崎駿がこの戯曲のことを考えたかどうかは謎だが、いずれにせよ、いきいきと飛びまわるという意味では、ニーナよりもナウシカのほうが「かもめ」のイメージには似つかわしい。
さて、もうひとつの『ワーニャ伯父さん』だが、こちらは村上春樹の「ドライブ・マイ・カー」で重要な要素になっているのでいつかちゃんと読みかえそうと思いつつ、時間だけが経ってしまった(ちなみに「ドライブ・マイ・カー」は濱口竜介監督の映画版のほうがよっぽどいいと思う)。『かもめ』のトレープレフはニーナのいう忍耐を信じることができずに自殺してしまうが、ワーニャ伯父さんは最後のところでふみとどまる。もとになっている戯曲『森の主』(1889)では当初、ワーニャ伯父さんもみずから死をえらぶ筋書きになっていたが、改作によって変更された。「でも、仕方がないわ、生きていかなければ!」(p238)ではじまるソーニャのせりふがとにかく有名で、僕もこの場面がいちばん胸うたれる。ここだけは『風立ちぬ』(2013)をつくった宮崎も同意するところじゃないか。いざ生きめやも!








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