『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』(三宅香帆、集英社、2024年)

例によってこのブログでは文芸書だけでなく話題の新書などを取り上げているが、この本はもうタイトルを見ただけで自分に刺さった。そして速攻でポチったのだが、例によってしばらくのあいだ積読の山のなかに埋もれることとなった。その理由はタイトルからして明らかで、僕は働いている社会人なので、したがって本を読むことができないからだ。読み終えてからも思うのだが、この本はいったい誰を対象としているのだろうか? 仕事についておらず、読書のための時間も豊富にある学生はもちろん対象ではないだろうし、メインターゲットであるとおぼしき仕事に追われている社会人は、これ自体が本であるので中身が気になっても読めはしないのである。

という、つまらないツッコミはさておき、中身はけっこう面白い本だった。自分自身、学生時代はあれほど小説を読む体力があったのに、社会人になってからしばらくはまともに本が読めないという現実と直面せざるを得なくなった。第一には忙しいからだが、第二には感性が磨滅していくからだ。十年ほど前までは電車に乗ってもバスに乗っても、人々がスマホの画面にくぎ付けになっているのを不気味だと思えるだけの感性があった。しかし、それはいまではごく当たり前の日常的な風景となっているし、僕自身はというと、スキマ時間があればスマホでメールチェックをしたり、調べものをしたりして、いかにもデキるビジネスマンを装っているが、たいていはほぼ無内容・無価値のネットニュースをスクロールしているだけだ。十年前の僕は、こうした行為を心の底から軽蔑していたにもかかわらず、である。

この感性の磨滅は、一言でいえば社会化による当然の帰結ということだろう。仕事に忙殺されているとしだいに労働が生きる目的と化し、それと無関係のことにはだんだん興味を示さなくなり、気がつけば滑車の中を無我夢中で走り回っているハムスターとよく似た状態になっている。走り終えたハムスターは大変な充実感で満たされているが、その行為が何ひとつ生産と結びついていないことを、僕たち人間は知っている。そして彼がそのシーシュポスの神話に似ていなくもない無益な運動をくり返しながら、ついにはケージの外に一歩も出られないままその生を終えてしまうだろうということも知っている。僕たちはこの愛らしい、ちいさな哺乳類の運命を憐れむが、神の眼から見たらハムスターも人間も本質的には何も変わるところがない。ひとりの人間がどんなに必死になって労働をしても、それはハムスターが滑車を走り回る程度の成果しか挙げないものだ。

著者の三宅氏は、このようなハムスター人間たちが際限なく増殖していく現代世界にあって、仕事に全力投球することをやめませんか、と提案している。「情報」を摂取するのみで、ノイズまみれの「知識」である本というメディアにふれる余裕がないのはおかしいと。とくに目新しい主張ではないが、まさに僕たちの世代の価値観に手際よく切り込んでいく第八章以降はなかなかに興味深く、膝をうちまくりであった。というよりも、手っ取り早くこの本から有益な「情報」だけを抜き取りたい方は第八章以降だけ読めばいいと思う。こういう手ごろな読書史みたいな本はあまり類例がないだろうし、三宅氏の情熱が伝わってくる労作ではあるのだけど、「半身で働いて本を読む余裕を作ろうね」という結論を提示するために、果たしてこんなに一冊を費やす必要があるのだろうか。

前半が読書史なのでかっちりしているが、後半になるにつれてどんどんふわっとしてくるのも気になった。おそらく三宅氏はそのありあまる読書への情熱をもって、ふだん本、とくに文芸書をあまり読まない人たちにその魅力を伝えたいのだろうし、その姿勢は僕もすごく共感できるのだけど、時を経てみればこの本じたいが単なる「情報」として消費されてしまって残りはしないだろうなという気がする。そもそも、この人自身が仕事が忙しくて会社をやめているというのは最大のツッコミどころだろう…… けっきょく、本にどっぷりと浸るためには会社という組織に属していてはダメっていうことなのだろうか? 僕にはそんなふうにしか思えなかったのだが。