デイヴィッド・マークソン『ウィトゲンシュタインの愛人』(木原善彦訳、国書刊行会、2020年)

フランスの学者、ピエール・バイヤールが書いた愉快な本に『読んでいない本について堂々と語る方法』(ちくま学芸文庫、2016年)がある。タイトルだけみると安易なハウツー本みたいだし、じっさいこの本は国際的なベストセラーになった。それで釣られた人が多かったのか、僕の手許にある文庫本は2020年11刷発行となっており、ちくま学芸文庫の一冊とは思えない売れ行きだ。しかしながら、この本じたいを読まずに語るというひねくれたことはせずにページをめくっていくと、ふだん読書をしない、とくに文学に興味がない向きにはまず通読できないような、わりにしっかりとした理論書だった。バイヤールはフランス人なので必然的に西洋の文学者への言及が大半を占めるのだが、漱石の『吾輩は猫である』が取り上げられているところなんかはさすがだと思った。
まじめな話、中身を読んでいない本について語ることなどほんとうに可能なのか?と僕もこの本を読みだす前は半信半疑だったのだが、考えてみると、僕じしんこの本に書かれていることを無意識のうちに実践しながら生きてきたのだった。ようはバイヤールとおなじで、職業柄、読んでもいない本をとりあげたり、ぬけぬけとコメントせざるをえない状況にたびたび直面してきたということだ。その方法の骨子は、とりあげようとする作者や本がおかれている「位置」を把握することである。早い話が、文庫本であれば作者略歴やあらすじ・解説の類に目を通せば、それだけで必要な情報はあらかたつかみとれる。でもそれだけでは不十分だ。くりかえすが、重要なのはあくまで位置の把握であるということを、以下に述べてみたい。
たとえば、東野圭吾と村上春樹というふたりの日本人作家についてなにかコメントせざるをえない状況におかれたとする。このふたりは売り上げという観点からすればともに日本を代表するベストセラー作家であるが、根本的な立ち位置が異なる。東野圭吾はミステリを得意とするエンターテインメント系の作家である一方、村上春樹は海外文学、とくにアメリカ文学からの影響が顕著な純文学系の作家である。いま僕は当然のように「エンターテインメント系」と「純文学系」ということばを使ったが、そもそもこの大まかな区分がどこから来ているのかというと、それは文学研究者や批評家、評論家などからなるごくせまい世界からである。その世界の人たちがミステリは文学のサブジャンルであって、東野は大衆的なミステリを書き続けているからエンタメ作家、村上は探偵小説やファンタジーなどサブジャンルを要素として取り込んではいるけれども、その作品の本質はあくまで現代社会のありように鋭く切り込むものだから純文学作家であると判定する。そしてその判定は教科書にも影響を与え、教育をつうじて、われわれはなにが文学で、なにが文学ではないかを教え込まれる。
そう、われわれは学校教育をつうじて文学なるものを教え込まれるのである。じっさいには自分の意志で一冊いっさつ選びとって読んでいかなければその内実はつかめないのだけれど、とにかく夏目漱石や川端康成、大江健三郎は正真正銘の文学であると、そういうことを僕がかたちのうえだけでもいえるのだとしたら、それは学校教育のたまものなのである。数年前に、いまの高校生用の国語教科書の内容を知る機会があって、そこには村上の短篇「鏡」が掲載されていた。村上の作品が教科書に掲載されていて、東野の作品が掲載されていないというのにも、教えるにふさわしい文学とそうでないものを判定するシステムの力が働いているわけである。ちなみに誤解されたくないのでつけ加えておくが、東野圭吾を悪くいうつもりはまったくない。僕は中学生のころから村上の愛読者だが、あの頃は東野圭吾もおもしろくて何冊も読んだものだった。作家からすれば、国家という権力からおすみつきを得るだなんて、わずらわしいだけの話ではないか。
好むと好まざるとにかかわらず、東野圭吾はエンタメ作家、村上春樹は純文学作家である。そしてその区別には文学の専門家たちの判定がかかわっている。しかし学術研究の世界にかぎっていうと、そこにはまたべつの性格があって、ベストセラー作家は軽視される傾向にある。川端も大江もノーベル文学賞を受賞しているわけだが、かりに生前の売れ行きという点で比較すれば、日本国内はもとより、翻訳によって世界じゅうに浸透している村上にはまったく勝てない。しかしながら、村上を正面きって論じようとする研究者は川端や大江を対象とするよりも下にみられやすい。ようするに、売れるということは大衆的であるということで、大衆的なものはそもそもの学術的価値が低いとみなされがちだからだ。
さらに、存命の作家も亡くなった作家と比べると敬遠される傾向にある。というのは、存命の作家はまさに生きているがゆえにその立ち位置や思想、作品の全体が確定せず、著作全体の価値を判定するのがきわめてむずかしいからだ。ノルウェーの作家クヌート・ハムスンは1920年にノーベル文学賞を受賞したが、のちにナチス支持に転じたことで大きく評価を下げたのだった。
僕がここであげたアカデミズムの性格というのはごく大まかなものだ。たとえば英文学における最高の権威のひとつはシェイクスピアであり、これを研究対象にしようとするとベタだなあ、品がいいんですねなどと思われはしてもその試みじたいが軽視されるのは想像しにくい。その研究者じしんの研究の価値とは無関係に、そもそもシェイクスピアが普遍的価値を有していると信じられているからだ。ちなみに、戦後の新しい文学をリードしていったのはアメリカなわけだけれど、それでもイギリス文学とアメリカ文学を並べると、イギリス文学のほうが格上だよねという意識は業界にかかわる者にとっては暗黙の了解である。いくら没落しようと、イギリスが父で、アメリカが子であるという事実はくつがえせないのだ(僕じしんはというと、それはもうアメリカ文学のほうが断然おもしろいと思っていくらか読んできたのだけれど、イギリス文学はまるで読んでこなかったので、いませっせとその欠落を埋めようとしているところだ)。
このまま延々と狭い世界の話をしていたら埒が明かないので無理やりまとめるが、ようするにある本についてコメントしたり、文章を書いたりする際には、その中身よりも、その本があるカテゴリー全体のどこに位置づけられ、またほかの諸要素とどのような関係をとり結んでいるのかを把握することが重要になってくるということだ。そのことを、バイヤールは「共有図書館」や「内なる図書館」、「ヴァーチャル図書館」といった造語を用いて検討していくのだが、じつのところ、それは広く文学に関わるものであればだれでも無意識のうちに理解し、実践していることだと思われる。読むべき古典・重要書のリストはただでさえ膨大なのに、そこに話題の新刊が際限なく加えられていくのである。それをいちいち熟読していたら本を読むだけで人生が終わってしまう。そこで読まずにちゃちゃっと済ませるスキルを身につけようぜというのがバイヤールの主張なのだが、このいかにも軽薄と思える主張には、大量の本の重圧から解放されてもっと創造的な主体になれという、教育者らしいメッセージが込められている。
じっさい、本というのはそれを深く理解しようとして熟読すればするほど、自分の考えが作者の考えに奇妙に同化していき、気づけばその本に書いてあることを不完全なかたちで繰り返すだけのオウムになってしまうという危険性をつねにはらんでいる。そういうあやまちを僕もこれまでどれだけ犯してきたことか。知識を得るために本を読むのに、それが主体性・創造性の放棄につながるというのはいまわしい事態だ。ということで、僕は人生を豊かに生きるために、これからはもう本を一冊も読まないと決めた。バイヤールの教えを実践するのである。てはじめに、デイヴィッド・マークソン著、木原善彦訳の『ウィトゲンシュタインの愛人』(Wittgenstein’s Mistress)という小説があるので読まずにレビューしてみよう。ちなみにこの本を選んだのはタイトルと装丁が好みという、ただそれだけの理由からである。
聞いたことがない作家だが、本に付されている作者略歴と訳者あとがきを読むと、デイヴィッド・マークソン(1927-2010)はアメリカの作家で、コロンビア大学で教鞭をとりながら娯楽小説を発表していたが、1988年刊の本書で批評家筋から高く評価された。全編がウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』のパロディになっており、ポストモダン文学の騎手であり、『尽きせぬ道化』(Infinite Jest, 1996)で知られるデヴィッド・フォスター・ウォレスが論文のなかで「おそらくアメリカにおける実験小説の最高到達点」(p317)と絶賛していることからして、この分野における重要な位置を占めていることはいうまでもない。マークソンは以降、『これは小説ではない』を含む「作者四部作」を発表し、断片を積み重ねる実験的な散文によって、ジェイムズ・ジョイスやサミュエル・ベケットの系譜に連なる作家と称されるまでになった。彼の文章を読みながら、僕はおおいに心をかき乱されると同時に、その知的で美しい表現に思わず息をのんだのだった。
……というのは冗談で、僕はこの小説を最初から最後まで通読した。しかしながら、本編をいっさい読まず、作者略歴と訳者あとがきをちょろっと読んだだけで、これだけのことが言えてしまうのは事実である。Amazonとかでよく見かける、ちょっと知的な感じをきどったレビューはじつは本編をろくに読んでいない人たちが書いてるんじゃないの?という気がしてきた。最後の「彼の文章を読みながら……」ですら、表紙の裏に書いてある宣伝文をあたかも自分の感想であるかのようにパクっただけである。もちろんポストモダン文学の専門家がみれば、断定はできないまでも、こいつは本編を読んでないだろうなと見破られるだろう。しかし、相手がアメリカ文学の専門家であっても、ポストモダン文学にあまり明るくない場合は、まんまとかつぐことができそうだ。というのは、リチャード・パワーズなど、アメリカのポストモダン文学の翻訳を精力的に手がけている木原善彦氏が訳者であるとはいえ、マークソンは専門家にもあまりよく知られていない作家だからだ。原著は1988年刊、そして2020年になって木原氏が初邦訳したという時点で日本ではまったく読まれていない。それに国書刊行会から出ているということで一般的な読者層の手に届くこともないだろう。
マークソンという名前がわからないのは仕方ないとしても、文学にかかわる人間がジョイスやベケットを知らないというのはちょっと考えにくい。そしてここでふたたびバイヤールの主張を引っ張ってくれば、だいじなことは『ユリシーズ』や『ゴドーを待ちながら』を丹念に読むことではなく、ただ彼らが20世紀モダニズム文学の巨人であるということを認識してさえいればいいということになる。もちろん、「意識の流れ」とか不条理演劇についてもいくらか知識があるとベターだが、べつにそこまでなくても問題はない。ジョイスやベケットが現代文学のどのようなところに位置しているかを知ってさえいれば、それをとっかかりにしてマークソンについて知ったかぶりをかますことができるようになる。つまり、マークソンが彼らに比せられる作家であるのなら、当然その散文は実験的なものであるだろうし、一般に無名の作家であることからして、ウィリアム・ギャディス(ちなみに『認識』が本編で言及される)とかドン・デリーロのようなカルト的人気を誇るアメリカのポストモダン作家たちと近しい文脈で論じることができるだろうというのは容易に察しがつく。そしてこれこそが「教養」なるものの大部分を支えている原理である。
しかしである。他のジャンルはさておき、小説というものは多かれ少なかれ語ることそのものが語る目的になっているというポストモダニズム的側面があり、本読みとしての経験を積めば積むほど、そこになにが書いてあるかはどうでもよくて、どのように書いてあるかが気になるようになってくるものだ。語りそのものを楽しむという視点にたてば、ページを繰りつづけることにも積極的な意味を見出せるのではないか。僕じしんは、有名な作品であればあるほど、読破しなくてはならないという妙なプレッシャーがかかるので、こういうおのれの感性のためだけに存在しているようなマイナー作品をみつけると燃えてくる性分だ。『ウィトゲンシュタインの愛人』は、人類滅亡後に一人生き残った(と自分では信じている)ケイトというアメリカ人女性の、まさに語ることそのものが語る目的であるかのような文章と、それがもたらす奇妙に思弁的な閉鎖空間こそが主人公であるといっていいような小説である。
偶然かもしれないが、作家や作品に対する「なじみ」について語っている次のような箇所はまさにバイヤール的だと感じた。この小説については文章を引用することがなによりも雄弁に中身を紹介することになると思うので、すこし長いが目をとおしてみてほしい。
とは言っても、ドイツの作家になじみがないというわけではない。例えば、フリードリッヒ・ニーチェには間違いなくなじみがある。
あるいはゲーテ。
私がこれらの作家になじみがあると言うとき、それは必ずしも、ことさらよく知っているという意味ではないのだけれども。
実を言うと、彼らになじみがあると私が言う時、それは必ずしも、彼らが書いた言葉を一つでも読んだことがあるという意味でさえない。
なじみがあるというのは実はせいぜい、レコードジャケットの裏面の文章を読んだことがあるという程度のことだ。
例えば、リヒャルト・シュトラウス作曲『ツァラトゥストラはかく語りき』の裏のように。
あるいは、『アルト・ラプソディ』のジャケットの裏。
ひょっとすると、『アルト・ラプソディ』のジャケットの裏の話をするのは、『ツァラトゥストラはかく語りき』のジャケットの裏の話をするのに比べて、関連が薄いように見えるかもしれない。
しかしながら、もしも『アルト・ラプソディ』のジャケットの裏を読んだことがなければ、私は『アルト・ラプソディ』がゲーテの詩を下敷きにしているという事実を知らずにいただろう。
とはいえ、私はベルリオーズの『ファウストの劫罰』のことも忘れたわけではない。
あるいはグノーの『ファウスト』。
あるいはリストの『ファウスト交響曲』。
たとえ今、私がまた知識をひけらかしているように見えたとしても。(pp.223-224)
この語りにはいくつか特徴がある。ひとつは、話が単線的ではなく、現実の人間の思考とおなじように、際限なく脱線していくということ。そしてその脱線の仕方をとおして、語り手の女性がどのような精神状態であるかがぼんやりとみえてくるという仕掛けになっている。おもしろいのは多数のとりちがえ、記憶違いと思われる箇所が見受けられること。たとえば「レイナー・マリア・リルケ」という表記が出てくるが(p227)、正しくは「ライナー・マリア・リルケ」。こういうのは訳者泣かせだろう。原文が意図的に誤りを含んでいるのを忠実に訳そうとすると、なかには訳者のミスであると早合点する読者も出てきそうだ。
後半になるにつれて語りはだんだん正常さを失っていくのだが、そこではレイナ―・マリア・リルケはかつて『認識』というタイトルの小説を書いた(p254)、ドストエフスキーがレイナ―・マリア・ラスコーリニコフについて書いていたとき……などとあり(p298)、もうめちゃくちゃである(『認識』を書いたのはウィリアム・ギャディスであり、『罪と罰』の主人公のフルネームはロジオン・ロマーヌイチ・ラスコーリニコフ。ちなみに語り手はそれ以前の語りでそれぞれ正しく言及しているので、これはとりちがえということになるだろう)。彼女は最初にもどって小説を書かなくてはならないのではないかと考えるのだが(p298)、形式として読者は「小説」を読んでいることになっているので、これは明確にメタフィクション的だ。作者も訳者も「小説」といっているのに、語り手がそれを否定している?
このようなポストモダン文学の利点は、たとえば「語り手は真実を述べている」とか、「いま自分は小説を読んでいる」といった無意識の前提をくつがえすことで、小説(フィクション)が虚構(フィクション)たるゆえんを再認識させてくれるところにある。ただ個人的には、ポストモダン文学というのはコンクリート打ちっぱなしの家みたいな無機質なイメージがあって、そういうのが好きな人は好きなんだろうけど、そればかりだと味気なくもなってくる。知的好奇心をくすぐる仕掛けはたしかに人を魅了するかもしれないが、真の意味で人を長く魅了するのはあくまで具体的な描写だと思う。仕掛けは一度仕組みがわかってしまえば、僕なんかはその後急速につまらないと感じてしまうたちだ。
そのことで連想するのはポール・オースターだ。オースターは探偵小説のパロディという体裁のポストモダン小説でデビューし、批評家受けしたところがあると思うのだけれど、その後は従来的な物語の形式にこだわるようになった(余談だが、追うものと追われるものの逆転を最初にやったのは『幽霊たち』ではなく、安部公房の『燃えつきた地図』ではないか)。いろいろな仕掛けで読ませるというより、純粋にストーリーテリングの技法によって読ませる方向に進んでいったのである。偶然にしては出来すぎている『ムーン・パレス』のような作品はディケンズ的ですらある。ありえたかもしれない4パターンの人生を同時に展開してみせる圧巻の大作『4321』にしても、本質は語ることにある。
もうひとつ、仕掛けではなく具体的な描写がだいじというのは、文学ではなくてアニメだが『魔法少女まどか☆マギカ』をあげておきたい。平成アニメの最高傑作が『新世紀エヴァンゲリオン』だとしたら、次点はまどマギできまりだ(異論は認める)。あくまで「魔法少女もの」という枠にとどまりながら、そのジャンルそのものをみずから否定・解体してみせるところはポストモダン以外の何物でもない。庵野秀明がコメントしているように、まどマギはキャラクターが徹底して記号化されており、そこに様式美のようなものが生まれる。アニメ版の最終話はセカイ系に接続するし、『叛逆の物語』はまんまエヴァの旧劇みたいだった。庵野がまどマギに惹かれたとしてもなんの不思議もない。
でも最終的にこの作品に愛着をもてるとしたら、意図的に対象年齢低めに設定したかのような絵柄と、ファンタジー、グロテスクを組み合わせたあの映像の力によるところが大きいのではないか。物語を記号や構造でしかとらえなくなると、特撮SFも魔法少女も単なる外見的要素なので注意を払う必要はなく、したがってエヴァとまどマギは同じ作品という結論になるが、そんなことはないだろう。現実的に、シンジとまどかが同じに見えるのだとしたら、精神病かなにかでしかない。『ウィトゲンシュタインの愛人』だって、出てくる要素はべつになんだっていいはずだが、アラビアのロレンスや『アルト・ラプソディ』への言及がくりかえし出てきて、それがなんの必然性もないからこそ、語りにリアリティが生まれるのだと思う。
ところで、『ワルプルギスの廻天』は本当に公開されると信じていいのだろうか。延期につぐ延期のせいで、もはやこれじたい本編内容の伏線になっているのではないかとメタ的に勘ぐりたくなってくる。ちなみに、ワルプルギスの夜(5月1日の前夜。別名は魔女の夜)の由来はドイツの民間行事で、これを扱ったもっとも有名な文学作品がゲーテの『ファウスト』である。それで僕の頭のなかでは『ファウスト』と『まどマギ』が隣り合っているが、今回『ウィトゲンシュタインの愛人』がそこに加わることになった。
とはいえ、クリストファー・マーロウの『フォースタス博士』のことも忘れたわけではない。あるいはトーマス・マンの『ファウスト博士』。あるいは手塚治虫の『ネオ・ファウスト』。たとえ今、私がまた知識をひけらかしているように見えたとしても。








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