藤本タツキ『チェンソーマン』(第1部・公安編、1-11巻、集英社)

*『チェンソーマン』1-11巻全体のネタバレを含むので、作品を未読の方はご注意ください。
1. 「まーオレたちゃ普通なんて夢の話だけどな」
数日前に最終回が予告されファンがざわついている『チェンソーマン』の第1部・公安編(単行本1~11巻)を読んでみた。第2部が完結するだけなのか、それとも作品全体が完結するのか定かでないが、僕は基本的に長すぎる漫画が嫌いなのでさっさと終わってもらっていっこうに構わない(第2部は評判が悪いし)。その点『鬼滅の刃』はじつにいさぎよい終わり方をしてくれたので好感をもっている。『呪術廻戦』もだけど、最近のジャンプ漫画は長く続けない傾向があるのだろうか?
レビューというのは普通は作品ぜんぶ、あるいは最新話まで読んでからするものだと思うけれど、現時点では第2部まで読む気力がないので、第1部だけ読んでみて自分の理解するところをまとめてみる。気が向いたら第2部も読むかもしれない。気になってはいるけれど、アニメもまだチェックできていない。ただ、この漫画の印象を決定づけている独特の画風、色彩感覚は自分の好きなものなので、アニメーションはぜひとも見なくてはならんなと感じている。年々新しいサブカルを摂取するのがだるくなってきている自分がいるのだが、まだボケたくはないな。「時代を追えばボケはしない/ニュースとか新聞を見続けろ/新しいものを常に味わえ」(第61話)ってクァンシもいってるから、まあだらだらとやっていきますか。
第1部を読むかぎり、これは新しいタイプの漫画だなと思った。知名度の高さに比して、かなり読み手を選ぶというか、玄人向けというか。これは漫画を暇つぶし程度にしか読まない層や、漫画ばかり読んでいて美術や映画にあまり興味がない層にはうまく読み解けないんじゃないかという気がする。たかがジャンプ漫画とあなどることなかれ。小学生が読んでも理解できるレベルに落とし込んであるが、作者の藤本タツキがめちゃくちゃな量の漫画を読み書きし、美術や映画といった漫画以外の分野に強く影響を受けている人間だということは容易に想像がつく。
漫画好きの友人におもしろいから読めと5~6年前に勧められてようやく読んでみたのだけれど、たしかにおもしろい。だがその「おもしろい」を言語化しようとすると途端にむずかしい。「おもしろい」にもfunny, interesting, intriguingといろいろな種類があるからね(もちろんこれらでは括れないものも)。レビューというのは作品を俎上に載せてチェーンソーで徹底的に解体、場合によっては批評理論のメスで丁寧にかっさばき、肉片をまたべつの生き物に再構築する作業であって、ただ「おもしろい」というだけでは単なる感想になってしまう。おもしろい、キモい、グロい、ヤバいという陳腐なワードを発するだけなら、小学生でもできる。思うに、いい作品というものは安易な言語化を拒むものであって、それでいくと『チェンソーマン』はすくなくとも自分にとってはまったくの駄作ではないのだろう。それでこそ考察のしがいがあるというものだ。
小学生並みの感想で終わらないためにも、なにか切り口が必要だ。ということで、手はじめにまず「絵」に着目してみたい。僕は普段は漫画というものをあまり好んで読まない。それはつまるところ、ある情報が絵というかたちでばーんと目に飛びこんでくるよりも、純粋に言語をとおして頭のなかで絵や映像を立ち上げるのが性にあっているからだろう。だから小説は好きだ。小説にとっての本質は「言語」である。文字のない小説は小説ではない。それとおなじように、漫画にとっての本質はなにかと考えると、それはやっぱり「絵」ということになる。台詞のない漫画はありえても、絵のない漫画は漫画ではない。小説でいう「言語」に相当するものが、漫画でいう「絵」だということ。
『チェンソーマン』の絵は独特だ。とにかく粗い。「精緻」という言葉とはほど遠い地点で成立している粗さ。あくまでジャンプ漫画のフォーマットを踏襲しつつもそこにアート的な感覚をもちこみ、ラフに崩したような個性あふれるスタイルだが、これは東北芸術工科大学・美術科洋画コース卒という作者の経歴によるところが大きいだろう。技術的にうまいか下手かでいえば、どちらかというと下手な部類に入るだろうということは自分のような絵のど素人でもわかる。とくにアクションシーンについては画力不足というか、圧倒的な迫力でもって読者を魅了するのがアクションシーンの醍醐味なのだとすれば、この漫画はそこのところに欠点がある気がする。しかし、総合的に評価すれば、ちょっと見ただけで「ああこれは藤本タツキの漫画だな」とわかるスタイルをつくりあげている点はすばらしい。
単行本のカバーで表現されているけばけばしい色づかい、それに裏表紙のあらすじにかかっているべたっとした原色の網かけ(WordやPower Pointなんかのそれを思わせる)は技法として斬新だと思う。また6巻のレゼがわかりやすいが、表と裏で同一キャラのカラーリングを変更する手法はアンディ・ウォーホルに代表されるポップアートに影響を受けているんじゃないかという気がする。画像だとわかりにくいが、裏表紙はドットの背景になっていて、これなんかもポップアートによくみられるもの。個人的には、ブコウスキーの『パルプ』は旧新潮文庫版のアメコミ風のジャケットが好きだったのだが、ちくま文庫から再刊されたものはちっとも魅力を感じない。ギュスターヴ・ドレの「悪魔の地上への降臨」とかそういうイラスト作品をあからさまに引用するのはわかりやすいけれど(第81話)、まず目を引くのは作者の独特の色彩感覚だ。絵のタッチはちがうけれど、色についてはちょっと荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』みたいでもある。



左から『チェンソーマン』6巻の表表紙と裏表紙(青い髪色は綾波レイみたいだ)、アンディ・ウォーホル<撃ち抜かれたマリリンたち>(Shot Marilyns, 1964)(名前の由来はウォーホルの意図に反して作品が銃で撃ち抜かれたことによる。発砲したパフォーマンスアーティストのドロシー・ポドバーはウォーホルのアトリエ「ザ・ファクトリー」を出禁になった)
ところで、ウォーホルもブコウスキーも共通項はアメリカということになるわけだが、チェンソーマンというモチーフもやっぱりアメコミを抜きにして考えることはできない。スパイダーマンとかバットマンとかね。でもチェンソーマンのイラストを最初にみたときはヴェノムを連想したな。あの牙といい、長い舌といい、そっくりだ。ポチタを取り外しできる点もシンビオートみたいだし。でも部分的には『新世紀エヴァンゲリオン』の初号機に見えなくもない。第37話でサムライソードに両腕を切断されたカットは、正面の構図からしてまんまゼルエルに両腕を切断された弐号機(テレビアニメ第19話「男の戦い」)だった。直接的には映画『悪魔のいけにえ』から来ているそうだが、チェンソーというのはそもそも猟奇殺人者が手にするものであって、主人公属性ではない。それをヒーローに結びつけてダークヒーローに仕立てているところはおもしろい。チェンソーのあまりの即物性、モノとしての強度が主人公であるデンジの強さを印象づけている。
いろんなところで語られているが、『チェンソーマン』は漫画でありながら映画に強く影響を受けたような表現に特徴がある。どんな漫画家も連載開始時は相当に気合いを入れるものだが、この映画的な表現はすでに第1話から強力な効果を発揮していて、読者の心をわしづかみにする。デンジがデビルハンターになった経緯を説明し、チェンソーマンになることで窮地を脱し、最後に公安に拾われるまでが流れるように描かれる。彼が借金を返すために臓器を売り、学校にも行かずデビルハンターをやっているというのは、現代の若者の貧困をグロテスクに誇張したものであり、1997年という時代設定でありながら、まさにいまを生きている若者の感覚とシンクロする。デンジがポチタに語りかける「まーオレたちゃ普通なんて夢の話だけどな」(第1話)は作品を象徴する台詞だ。
2.「言ったでしょう? 私は彼のファンなんです」
僕は作者とおなじ1992年生まれなので、経験してきたことはちがえど、生きてきた時代の空気感みたいなものはわかる。生まれたときからいまに至るまでずっと景気は悪いし、いまのZ世代の若者たちも基本的にはその延長上にあるので貧しさから脱し「普通」になることが夢だというデンジの感覚は、バブル崩壊以降に生まれた世代なら容易に理解しうるものではないか。食欲と性欲、それにある程度の承認欲求を満たせればそれでよしということだが、裏をかえせばデンジには欲求しかないということでもある。そんなデンジの夢は、ただ一点をのぞいて第3話にして早くもかなってしまう。その一点というのが「性欲」の充足であり、それがしばらく彼の基本的な行動原理として機能していくことになる。
僕が子どものころにまともに読んだジャンプ漫画は『遊☆戯☆王』や『NARUTO』『銀魂』『BLACK CAT』くらいのものだが、いずれも読者サービスのお色気程度のものはあっても、デンジみたいに女の子の胸を揉みたいだの、セックスしたいだの、あからさまにそういうことを表明する描写はなかったと記憶している。というのは、ジャンプの主な読者層である10代男子の頭のなかは大部分が異性への関心で占められているのが普通であり、特殊なジャンルでもないかぎり、わざわざそういうことをいう必要がないからだ。男子だけではない。女の子にだって性欲はある。性欲に性別は関係ない。だからこそ、デンジのようにあからさまに性欲につき動かされるキャラクターを描かなければならない状況とはいったいなにか?という疑問が生じてくる。
思うに、フィクションにおいて通常は省略される要素を前景化させることは、ほぼ確実にその背後にひそんでいるものを浮かび上がらせようとすることである。食欲や承認欲求の充足はすべて個人の健全な生活に寄与するだけだが、性欲は他者と関係性をとり結ぶ方向に作用する点で本質的に異なる。つきつめていえば満たせなくてもなんら問題なく生きていける性欲は、他者を志向する欲求なのである。作品の序盤において、デンジは胸を揉むことを目標に設定したものの、それはいともたやすくかなってしまう。パワーの胸・マキマの胸(第12話)から出発し、姫野のキス(これが本物のゲロチューか……!)(第21話)、レゼのキス(舌をかみちぎられる)(第44話)と順調に経験を積んでいき、第47話にて知り合う女全員が自分のことを殺そうとしてくるという事実に気づく。デンジはチェンソーマンでいるかぎりあらゆる女性キャラと関わることができるが、その代わりつねに命を狙われるというハードな世界に生きている。
けれどもデンジはどんなにひどい目にあおうと女の子が好きなままだし、とりわけ最終目標であるマキマには盲目的に服従する。自分の手でアキを殺したという自責の念にたえきれず、文字どおりマキマの犬になることを決める(第80話~第82話)。ちなみに第1話から登場するマキマ(MAKIMA:名前のなかに悪魔がみえる)だが、第2話で「特別に鼻が利く」ことが明かされ、サービスエリアで食べているものもアメリカンドッグだったりと、物語序盤からすでに「犬」を象徴するかのようなキャラとして描かれている。デンジはマキマに拾われ、公安の犬として働かされるわけだが、そもそもポチタ=犬と一体化しているわけなので、彼もまた犬である。レゼも彼の顔が死んだ自分の犬に似ているといって笑う(第40話)。象徴的なレベルでみれば、パワー=猫やレゼ=ネズミではなく1、マキマとデンジがひかれあうのはおなじ犬という種族だからということになる。
ナンセンスなことをいわせてもらえばDOGをひっくりかえすとGODになる。作品において、マキマ=DOG=GOD(正確にはGODDESSか)は、支配の悪魔として世界に君臨する。マキマの犬になることで自分で考え行動する自由を放棄したデンジだったが、彼女にパワーを殺されたあげく、おそろしい真実を告げられたことでようやく目を覚ます。第93話にて、マキマに服従することでは自分の夢だった「普通」がかなえられないことから、義務感からではなく自分の意志でチェンソーマンとなりマキマを殺すことを決意する。たとえそれが「普通」、すなわち承認欲求や食欲、性欲を満たすためだけでしかないとしても、ともかくデンジはここにきてはじめて自分の意志で行動することをおぼえる。ちなみに第92話において、コベニは誰かの言いなりになることが「普通」だと語っているが、この点で彼女は「普通」という概念を差異化する役割を演じている。
推しを推すという行為がいまいち僕にはよくわからない。ただどうも、推し活に精を出す人たちは推しの存在に自分を重ねることで同一化の喜びを得ているらしいということは、『推し、燃ゆ』とか『推しの子』なんかを読んで知った。第84話において、マキマはチェンソーマンの力を使って世界にとって不都合なものを消し去りたいともくろんでいること、そして唐突に自分は彼のファンであることを告白する(マキマ定食の願望も。ひとつになるってそういうことかよォ!)。ここにはあきらかに自己をチェンソーマンに重ねる心理、推しに自らを重ねるファンの心理が読み取れる。「完璧じゃない君じゃ許せない/自分を許せない/誰よりも強い君以外は認めない」(YOASOBI「アイドル」)。マキマが崇拝しているのは真のヒーローであるチェンソーマン=ポチタであって、デンジという人間ではない。ちなみこの「推し/ファン」の構図はビーム(チェンソーマンの熱烈なファン)、それに部分的にはクァンシ(第61話のレポーターのくだり)にも見出せる。
こんなふうに読んでみると、マキマは「強いヒーローにあこがれる崇拝者」を演じていただけじゃないのかという気がしてくる。第96話にて彼女が勝利をおさめた証にタバコを吸ったのちにせきこむ描写は、大人のまねをしてタバコを吸ってみた未成年の構図だ(ハイライト(作中ではハイファイト)っていうのがまたそれっぽい)。マキマ=支配の悪魔は他者との対等な関係を築きたかったが、恐怖で相手を屈服させることでしか関係を築けない(第97話)。物語の進展にともない、デンジは体ではなくHEART(心)の重要性を認識していくのに対し、マキマは最後までデンジのHEART(心臓)にしか興味がなかった。2デンジやマキマは、精神的なものの重要性をぼんやり認識しつつも、次からつぎへと尽きることなく供給される食べ物や娯楽を消費して生きている現代人に、ほんとうは他者とつながることを求めているのに、それをかなえることができない空虚さを物質によって埋めようとする現代人に重なるところがあると思う。
われわれは多かれすくなかれ、物質の供給は過多である一方で、精神的にはどこか満たされない感覚をともなって生きている。考えてみれば物質的な充足すらままならなかった昔の人びと、あるいは貧困や政治情勢が原因でいまもそのような状態にある地域の人びとからするとずいぶんと幸せだが、人間とは欲深いものだ。心も満たされないとだめなのである。デンジやマキマだけじゃない。アキにしても銃の悪魔に家族を殺されているし、コベニも機能不全家族に悩まされているし、ニャーコとデンジしか友だちがいないパワーだって問題を抱えている。フィクションにおいて一般的にあまり描写されることがないものの筆頭は排泄行為および排泄物だが、この作品を語るうえで欠かせないゲロは、いったん受け入れようとしたのに受け入れられなかったものの象徴だろう。第72話なんかひどくて3回もゲロる場面が出てくる。こういうのを見ていると単にタツキが内臓だけでなくゲロへのフェティシズムがあるだけでは?と思えなくもないが。
当然だがゲロを吐くのは気持ちが悪い。そりゃ口から入って肛門から出ていくのが正常なところ食道が逆の動きをするわけだからね。不思議なことに、正常な生理現象の結果としてあるクソは言及されはしてもゲロとちがって直接的に描写されることはない。そうなってくると単に作者のフェティシズムということではなく、なにかしらの意図が込められているとみるべきだ。それについて僕が思うのは、『チェンソーマン』はことごとくアンチ・カタルシスな漫画であるということ。読者は銃の悪魔というのがラスボス的な存在なんだな、こいつと戦うのがクライマックスなんだなと思って読み進めていくのに、第73話にてあろうことかすでに倒されて拘束されていることが判明する。その肉片は世界の国々が抑止力として分割保有しており、悪魔というよりも一種の兵器のような扱われ方がなされている。
より根本的なところでは、デンジ=チェンソーマンにとって死はあってないようなものなので、彼の周囲に登場してくるそこそこ重要そうなキャラが早々に退場しても、こちらの感情はまったく動かないことをあげておく。第62話ではすっころんだビームに「浮いてる…す…すげぇ…」とかとぼけたことをいわれながら、知らないうちに4本目の釘が刺さってデンジが死ぬが(呪いの悪魔の力)、これなんか無意味すぎて大笑いできる。いや、いちおうはデンジを地獄に送るというストーリー上の役割はあるのだけれど、これってサムライソードのはりつけ(第24話)の自己パロディだし、唐突すぎてギャグにしか見えないし。
ほかにも『NARUTO』のサスケみたいでそこそこかっこいいと思っていたアキが(コン!って口寄せの術で九尾を呼んでるんじゃないの?)、「キン」という擬音とともにいきなり金玉を蹴られて一瞬でイケメンが崩壊したり(第3話)、直前まで話の中心にいた姫野やレゼが次の話であっさり殺されたりと、アンチ・カタルシスの例をあげていけばきりがない。なかでもアメリカ三兄弟の長男があっさり人身事故死するというのは秀逸なギャグの例として今後ながく語り継がれていくだろう(不死身っていったい……)。
読んですっきりするどころか、『チェンソーマン』は血まみれのアクションシーンとシュールなギャグの混合物を、上書きされることのないゲロの味のような不快感でコーティングした漫画である。「永久機関」(小学校にも通っていないやつがなんでこんな概念を知っているんだ?)となって永遠の悪魔を倒したあと、デンジは「銃の悪魔の肉片も取れたし/晴れてるし/糞したあとみてえな気分だぜ……」(第20話)というが、すなわち作中においてクソは快とむすびつくものとして描写されており、したがって不快の提供を是とする『チェンソーマン』ではそのポジションをゲロにゆずりわたしているということになる。
3.「いいですか?これは漫画の主人公の話じゃないですよ?」
『鬼滅の刃』は社会現象レベルでヒットしたわけだが、その大きな要因は、鬼たちはもともと人間であって、それぞれ鬼にならざるを得なかった事情が丁寧に描かれていて読者の共感を誘うところにある。猗窩座なんかは敵サイドなのにたいへんな人気だ。大ざっぱにいえば『チェンソーマン』の悪魔や魔人もおなじ構図なのに、上述のように死んでもなんの感興も引き起こさないのはある種すがすがしくさえある。作者がそもそも『鬼滅の刃』みたいなべたべたな感傷に興味をもっていないことはよくわかるし、むしろパロディとかオマージュとかをこれでもかと詰めこむことに情熱をそそいでいるおかげで、ちょっとした玄人向けの作品になっているのだろう。パロディでできている漫画といえば『銀魂』があるが、いまおもえばネットミーム文化の黎明期(ゼロ年代)に重なっていたからこそ、あの作風が世にウケたところがあるんだと思う。
パロディというのは受け手が元ネタを理解できなければ成立しないので、したがって元ネタは有名なもの・知名度の高いものが選ばれやすい。『ワンパンマン』とかタイトルだけでなにが元ネタか誰にでもわかるよね。ところでパロディとオマージュはよく混同されるのでここで意味を確認しておきたい。オックスフォード新英英辞典によると"parody"は"an imitation of the style of a particular writer, artist, or genre with deliberate exaggeration for comic effect"(喜劇的な効果を得るために意図的に誇張して特定の作家やアーティスト、あるいはジャンルのスタイルを模倣すること)とある。同様に"homage"(オマージュはフランス語読み。英語だとホミッジ)を引くと"special honour or respect shown publicly"(公に示された特別な敬意あるいは尊敬)とある。こうやってならべると両者のちがいは一目瞭然なのだが、「敬意」とか「尊敬」があまりにもふわっとした概念なので、現実にはオマージュのつもりで模倣したところ、相手方にはパロディでもオマージュでもなくパクリと受け取られて問題になるみたいなことが跡を絶たない。学術論文であれば厳格な引用のルールがあるが、創作物はそこがゆるく、そのことが表現の自由の担保につながっている一方で、問題を起こす火種にもなりうる。
本編は見ていないが米津玄師の「KICK BACK」とともに流れるアニメ版のオープニング映像はオマージュの連続というか、オマージュだけでできているような代物だ。コーエン兄弟の『ビッグ・リボウスキ』に『ノー・カントリー』、それにタランティーノの『パルプ・フィクション』『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』ねえ。このあたりは僕もぜんぶ見ているが、正直初見でわかったのって『ビッグ・リボウスキ』のボウリングのところくらいだった笑。ジーザスのあの卑猥さがたまらんのよね。ふたたび原作にもどると、人形と化した一般人をチェンソーマンが「南無ッ/三!」(第68話)っていいながら切りつけるシーンは『ブラック・ジャック』みたいだなって思ったし(ついでにいうと第6話のコウモリの悪魔が潜んでいる家はその立地がブラック・ジャックの家っぽい)、マキマの旅行の提案にたいし、日にちをいっていないそばからその日は急用の会議があると嘘をついて断ろうとするパワーはまんま『イエスマン “YES"は人生のパスワード』のジム・キャリーじゃないかと気づいた。このへんはパロディでもオマージュでもなく小ネタの部類だろうけど、自分でみつけられるとなかなか楽しい。
少数ながらメタフィクション的な要素もある。たとえば岸辺との修行の場面でデンジが「漫画とかの頭いいキャラみてえに戦えたらいいな~ってよ!」(第30話)と口走るし、ニュースキャスターががチェンソーマンの活躍を指して「いいですか?これは漫画の主人公の話じゃないですよ?」(第92話)と発言するが、こういうメタ要素は読者の感興をそぐので無目的にやるのはありえない。個人的には、こういうのも先ほど述べたアンチ・カタルシス、欲望にしたがって生きる現代人の醒めた感覚とつながっていると思う。この文章を書いているうちに思い出したが、そういえば『銀魂』が流行っていた20数年前は、『星のカービィ』とか『ソニックX』とか子ども向けのアニメにも楽屋落ちみたいな雰囲気のメタ要素がけっこうみられたものだった。3またこれはメタフィクションではなくアダプテーションの話になるが、『チェンソーマン』は映画を志向する漫画であり、5巻の第39話「きっと泣く」から6巻の第52話「失恋・花・チェンソー」までは流れるような映像美を感じさせ、漫画としての出来がそれまでと段違いにいい。それをアニメ化した劇場版レゼ篇は、いわば映画的な漫画が映画になっているわけで、タツキの面目躍如である。米津の主題歌のとおり「アイリス・アウト」の手法が多用されていると聞く。
あらゆる創作物は先行する創作物の模倣に過ぎないと、そこまでいいきるだけの大胆さを僕は持ち合わせていないが、模倣することが創作という行為の根本をなしているということは否定しない。ジャンルはいろいろあるけれど、いい創作物にふれると真似してみたくなるのがクリエイターの性というものだろう。『遊☆戯☆王』だって原作者の高橋和希はアメコミに強い影響を受けているし(花咲くんとゾンバイアの回なんかわかりやすいけれど、わかる人すくないだろうなあ)、派生コンテンツ、というかもはやメインコンテンツになっているトレーディングカードゲームにしても当初はMTG(マジック・ザ・ギャザリング)を参考にしたものだった(そしてMTGから派生した弟分がデュエル・マスターズ)。僕たちの世代であれば、ブラック・マジシャンや青眼の白龍(ブルーアイズ・ホワイト・ドラゴン)はだれでも知っている。そしてそういうものに影響を受けた人びとのなかからまた新しい創作物が生まれてくるだろう。『遊☆戯☆王』という、古代エジプト神話の世界とMTGを組み合わせるというオリジナリティをジャンプ漫画の枠組みで達成した作品はこのようにして、次世代に受け継がれていく。
文化の継承とは、本質的にこのような「模倣する/模倣される」という終わりのない力学のなかでなし遂げられるものだ。仮にだれも見聞きしたことがない、まったく新しいものを創造できたとしても、それはおそらく同時代的な評価は得られないだろう。時代を先取りしていた!とかいって、死後にようやく評価されても、それを生み出した人間はまったく報われない。だから大衆に支持されるものはちょうどいい凡庸さをそなえているものだ、というのが僕の感じるところである。そしてその「ちょうどいい」をつくりだすことほどむずかしいことはない。『チェンソーマン』の場合は、〇〇マンというアメリカ文化由来の概念はもはやだれにでもなじみがあるものだし、和製のダークヒーローものにしても『デビルマン』みたいな偉大な先行作品がある。でもそこに美術的要素やアメリカ映画的な表現を取り入れるというのは目新しい。
『チェンソーマン』は物語性が弱い。レゼと接するうちにデンジは「俺は俺の事を好きな人が好きだ」と、なんだか自己肯定感の低い人間のテンプレみたいなことを思うわけだが(第40話)、彼は生い立ちからして悲惨なのでそうなってしまうのは心情としてわかる。第1話からして女に「抱かれながら眠る」夢を見ようとしているのに、チェンソーマンになって強くなった途端、それが「抱かせて」に変わる。これを現実的に解釈すれば、いい大学に入ったりいい職業につくことでしか自信をもてない、いわば肩書でしか自己を肯定できないという心理を描いているように思える。
でもめちゃめちゃなシーンの合間に思い出したかのようにそういう心理が細切れに出てくるだけなので、説得力というものが生まれない。両親がいなくて学校にも通わずにデビルハンターなんかやってたら、そりゃ自己肯定感は低いっしょ?みたいな図式だけが乱暴に提示されているように感じる。そこを読者に印象づけるのが丁寧な手つきによる心理描写であり、起伏のあるプロット展開ということになるのだが、何度もいっているように、タツキは端からそういうもので読者を惹きつけようとはしていない。
べつにあらゆる漫画が物語性豊かである必要はないと思うけれど、ジャンプ漫画のスローガンである「友情・努力・勝利」はどこにいったのか。第1部を読むかぎりでは、そのどれもが明確なかたちで達成されてはいないが、しかしそこにこそ『チェンソーマン』という作品の価値があるのだろう。いずれこの作品じたいが消費しつくされていき、「もう見飽きたわ/二番煎じ言い換えのパロディ」(Ado「うっせぇわ」)的な領域においやられていく、そういう運命そのものを作者じしんが醒めた目でみているようだ。でも醒めてはいても目をそむけることはしない。作品の誠実さはそのような姿勢からしか生まれてこないのではないかと思う。
(注)
- チョーカーは猫的な要素とむすびつくことがある。わかりやすいのは『ゲゲゲの鬼太郎』のねこ娘(最近のデザイン)とか『BLACK CAT』のトレイン=ハートネットとか。レゼもまた首にチョーカーをつけているが、彼女は猫ではなくネズミだろう(正確にはモルモット)。『チェンソーマン』の世界では1997年時点でもソ連が存続しており、レゼはソ連の戦士である。戦後の国際情勢は米ソの冷戦構造を軸に展開していったことを考えると、彼女に手をくだすマキマは日本の内閣総理大臣と契約しているとはいえ、アメリカ側についているようにもみえる。チェンソーマンというヒーローがアメリカ文化に由来することを考えると、彼のファンであるマキマがアメリカ側であるというのはさして理解に苦しむことではない。 ↩︎
- 第82話においてマキマがふたりぶんの朝食をつくり、ソファに横たわるデンジに背を向けてひとりで食べるシーンはコミュニケーションの不可能性を端的にあらわしたものだろう。 ↩︎
- 『ソニックX』の第20話「出撃!エッグフォートII」でエミーがソニックに対してかますお説教なんかは最強のメタ要素だ。 ↩︎







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